「行いか信仰か」宗教改革記念日(聖日礼拝メッセージ 2022/10/30)

 1517年10月31日、マルチン・ルターは九十五箇条の提題をヴィッテンベルク城の北側の扉に掲げ、免罪符(煉獄での刑罰の期間が短縮されるチケット)の売買が聖書的にも理性的にも伝統的にも不当であると訴えました。 明日、10月31日は宗教改革記念日です。

1.初代教会のユダヤ主義の問題
 「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」使徒 15:10,11

 ユダヤ主義は、「異邦人も割礼を受け律法を守らなければ救われない。」という教えです。パウロたちが福音を宣べ伝えて異邦人が救われ、教会が誕生しましたが、その後、ユダヤ主義などの偽りの教えが忍び込んできて大問題になりました。私たちがもし「自分は立派なクリスチャンではないので救われていない。もっと努力して救われるようなクリスチャンになる。」と考えるならば、初代教会で問題となっていたユダヤ主義・律法主義・偽りの教え・偽りの福音に陥っていることになります。

2.律法による義
 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。ガラテヤ 5:3,4

 私たちが救いを受け聖霊様をいただいたのは、律法を行ったからではなく信仰を持って聞いたからです。御霊によって始まったことが肉によって完成することはありません(ガラテヤ 3:1~3)。律法は私たちに罪を教え、罪深さを知らしめてイエス様の救いを求めさせる養育係であり(ガラテヤ 3:24)、良いものです(ローマ 7:12)。しかし、私たちが律法をすべて完全に守らなければ律法による義は成立しません。

3.信仰と選びによる義
 すなわち神は、世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。エペソ 1:4,5

 行いによる救いは聖書の教えるところではありません。神様は私たちの罪深さ、不完全さ、汚れをよくご存じなので、罪なきイエス様に私たちのすべての罪咎を負わせて、救いを完成してくださいました。
 私たちはただ救いに感謝し、キリストの律法を成就しましょう。

 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。ガラテヤ 6:2

 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです。ヨハネ 15:16

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