礼拝メッセージ

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。レビ記 19:2

このみことばを見るとドキッとしませんか。「自分は罪深く、失敗ばかりしていてとても神様のように心のきれいな「聖い者」ではない、いくら望んでもかなうことではない、自分にガッカリしてしまう。・・・」
神様は理不尽な要求をされているのでしょうか。

1.「聖い者」とは
レビ記19章では守るべき十戒が繰り返されています。まず、両親を敬うこと、安息日を守ること、偶像を拝まないこと、神様にささげ物をすること、社会的弱者を助けること、正直であることです。
「聖なる者」とは、神様のすべての掟と定めとを守り行ない、汚れた者にならず、神様との交わりに留まることです。

・・・自分の罪を告白するなら、・・・その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。・・・ Ⅰヨハネ 1:1~10

2.信仰による聖め
もし、私たちが自分の力で聖めを得ようとするなら、絶対不可能です。 聖めは三位一体の神様のお働きです。

①聖めは神様のお働きです。
神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。エペソ 1:4

②聖めはイエス様のお働きです。
神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。コロサイ 1:22

③聖めは聖霊様のお働きです。
・・・神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。Ⅱテサロニケ 2:13

3.聖化の生活
聖化とは「人が聖くされていく過程、またはその結果である聖い状態を示す。必ずしも道徳的、倫理的なものと考える必要はなく、神への帰属を宣言する意味合いが強い。つまり、世(世俗的なもの)から分離され、神へと聖別されていることである。(「新エッセンシャル聖書辞典」)

あなたがたは心を引き締め、身を慎み、・・・以前、無知であった時の欲望に従わず。むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。Ⅰペテロ 1:13~16

・・・聖められることを追い求めなさい。聖くなければだれも主を見ることができません。ヘブル12:14

自分にガッカリすることは高慢です。聖めの過程に感謝しましょう。

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである。出エジプト記 16:4

モーセに率いられ、奇跡的に紅海を通ってエジプトから脱出したイスラエルの民は、主に感謝して喜んだのもつかの間、荒野の旅で水と食糧が不足してきたため、神様とモーセに対して「エジプトの方が良かった。我々を死なせるのか。」と不平を言いました。神様はそんな彼らに不思議な方法で天からのパン(マナ)を与えられました。

1.恵みのパン

神様は、彼らが約束の地カナンに入るまでの40年間、マナを与え続けられました。彼らは農作業によって苦労してパン(マナ)を得たのではなく、毎日天から降ってくるマナを集めるだけでした。信仰と感謝が必要です。
神様は彼らのつぶやきに対して、寛容な心で必要を備えて下さいました。
神様は、善人にも悪人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせて下さいます(マタイ5:45)。私たちが生きるために必要な自然の恵みを受けているのは、当然の権利ではなく、神様の大きな恵みです。

2.試みのパン

マナをいただくためのルール(出エジプト16:11~31)
①毎朝、1人1オメル(2.3㍑)ずつ集める。
②その日の分はその日のうちに消費する。
③7日目の安息日にはマナは与えられないので、6日目に2日分集めて  火を通して保存する。
彼らは幾度となく神様の奇蹟、不思議、現れ、みことばを経験しながらも、3つの簡単なルールさえも守らない者がいました。神様は彼らを怒り、7日目の安息日には自分のところに留まって、主を礼拝するように命じられました。

3.いのちのパン

神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」・・・イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。ヨハネ 6:33~35

モーセを通して与えられたパン(マナ)は、イエス様を現わす型です。
①イエス様はいのちのパン(ヨハネ6:47~59)⇒ 永遠のいのち
②みことばによって生きる(申命記8:3、マタイ4:4)⇒ 霊の糧
③聖餐式(マタイ26:26)⇒ 見える形でイエス様に与る

私たちは罪の束縛・永遠の滅びから救われましたが、イスラエルの民のように現状が思い通りに行かないといって、元の生活に戻ることを求めたり、つぶやいたり、主の命令に逆らったりしてしまいます。
イエス様の救いと恵みに心から感謝して、主が命じておられる道に進みましょう。イエス様と歩む道は、渇くことのない豊かな道です。

子どもたちよ、あなたがたは、主にあって〔その代表者としての〕あなたがたの両親に従いなさい。これは当然であって、また正しいことであるからです。「あなたの父と母を敬いなさい〈尊い人々として重んじ、たいせつにしなさい〉」。これは〔次の〕約束を伴った第一の戒めです〔出エジプト記20:12〕。〔すなわち〕「そうすれば、すべての事が、あなたにとって順調で、あなたは、この地上で長寿が得られる」。エペソ6:1~3(詳訳)

今日は母の日です。あなたは、両親や家族と良好な関係が保たれていますか。また、霊の家族である教会の兄弟姉妹との関係は良好ですか。尊敬、喜び、親しみ、感謝の関係ですか。みことばは、両親や家族との関係、霊の家族との関係が信仰と深く関わり合っていると告げています。

1.みことばの約束

神様は血縁としての家族をとても大切にします。いのちを紡ぎ、いのちを育む、最も基本となる祝福の基だからです。両親を尊敬する事が、その人の人格や人となりを形成し、人生をも作り上げていきます。
みことばは、両親を尊敬する生き方が、その人に順調な人生と長寿の祝福をもたらすと約束しています。

2.家族と信仰

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定している(捨てている)のであって、不信者よりも劣っている(悪い)のです。Ⅰテモテ5:8 ( )は第3版

信仰とは、自分と神様との個人的な出会い、関係、決心です。しかし、信仰によって生きて行くことは自分が良ければ良い、ほかの人とは関係がないというものではありません。みことばは、自分の家族との関係が悪いということは、信仰のない人よりも悪いと言っています。
信仰とは、神様のみこころに従って生きて行くことであり、信仰の完成を目指し信仰を深めて行くことです。

3.神(霊)の家族

すると、イエスは彼らに答えて、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。・・・だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」マルコ 3:33~35

イエス様は、神様のみこころを行う人が本当の家族、神(霊)の家族だと言われました。イエス様に仕えるように神(霊)の家族である兄弟姉妹に仕えることは、永遠につながることです。(ヨハネ13:34)
私たちは、機会があるうちに善を行わなければ、時や機会、肉親の家族、神(霊)の家族(兄弟姉妹)との関係もあっという間に過ぎ去って行きます。今は恵みの時、今は救いの日です。」Ⅱコリント6:2

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。・・・ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。ガラテヤ 6:6~10

「心配するな。わたしがついている。おまえを遣わしたのが私だという証拠に、必ずおまえといっしょにいよう。」 出エジプト記 3:12(LB訳)

ヤコブの息子ヨセフがエジプトに売られて後、夢の解き明かしによって宰相になり、飢饉で苦しむイスラエル一族をエジプトに呼び寄せました。その後、イスラエル民族は400年間奴隷状態(創世記15:13~16)にありました。神様は助けを求める彼らの叫び声を聞き、苦しみから解放して乳と蜜の流れる約束の地カナンへ導こうとしました。そのためにモーセを救済者として召し出しますが、モーセは不安を覚えて躊躇しました。

1.モーセの不安

モーセは、同胞もエジプトも自分が神様から遣わされたことを信じないだろうし、自分は口べただからだれかほかの人にして下さいと神様の召しを拒否しました(出エジプト4:1~17)。
モーセは、エジプト・ファラオの強大さを知っていたので、その国に立ち向かうことに恐れを覚えたことでしょう。また、自分は同胞が苦しむエジプトから遠く離れ、ミデアンの地で羊を飼い、結婚して子供を儲けたので、平穏で安定した幸せな生活を失いたくなかったのだと思います。

2.神様のしるし
神様は、躊躇するモーセに対して、「わたしが、あなたとともにいる」この約束がしるしだと言われました。後に様々な奇蹟(9つの災いと初子の死、出エジプト7:14~12:36)がモーセの手を通して行われましたが、モーセは「神様がともにいて下さる」というみことばに信頼して、困難な働きに進んで行きました(出エジプト 5:1~3)。
モーセは神様の約束を信じて同胞を解放しようとファラオと対決しますが、事は順調には進みません。ファラオが頑なになってかえって同胞の苦しみが増し、同胞からも恨まれてしまいました(出エジプト 5:4~23)。この対決は1年にわたって繰り広げられました。しかし、神様のみこころは、ファラオの頑なさを通して、イスラエル、エジプト、世界中に「主こそ神様である」ことを知らしめることでした(出エジプト 6:7,7:5)。

3.ともにおられるイエス様

私たちは、モーセを意気地なしと非難することはできません。私たちもイエス様に従おうとする時、召しに応えて使命を全うしようとする時、順調に歩みを進めている時、大きな不安に襲われたりします。

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。マタイ 18:20

そんな時、イエス様の約束・みことばの約束を信じて進みましょう。私たちのために十字架で死んでよみがえって下さったお方、イエス様の名前は「神が私たちとともにおられる」という意味です(マタイ1:23)。

見よ。私はいつも〈継続して、同じように、また、どんな場合にも〉世の集結〈完結〉〔結末〕まであなたたちとともにいる。」アーメン     マタイ 28:20(詳訳)

ヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ、わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに価しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。・・・、私は恐れています。」 創世記 32:9~11

ヤコブはアブラハムの孫、イサクの息子で、双子の弟です。彼はずるい性格が災いして波瀾万丈の一生を送りました。彼は神様によって名をイスラエルとされ、12人の息子が与えられました。息子たちはイスラエル12部族の族長となりました。彼は信仰によって神様から約束を与えられました。

1.自分の手で願望を成し遂げようとしたヤコブ

神様は兄エサウより弟ヤコブを選んで愛し、祝福されました(創世記25:21~26、マラキ1:1~5、ローマ9:10~16)。しかし、ヤコブは兄の弱みにつけ込んで長子の権利を奪い(創世記25:29~34)、父イサクをだまして(創世記27:1~45)祝福を奪い取りました。その結果、兄から命を狙われて伯父の元へ逃げてそこで暮らしました。しかし、伯父にだまされて20年間も仕えることになりました。彼は神様の約束を信じないで、自分の力で「幸せ」をつかもうとしました。

2.へりくだったヤコブ
・・・ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 創世記 32:26

ヤコブは、自分が蒔いた種による20年間の苦労と帰郷の時の兄エサウに対する恐れにより、主に罪を悔い改めて祈り求めました。

①自分の過去の過ちを認めた。
②自分の足りなさを悟っていた。
③神様からいただいた今までの恵みを知っていた。(詩篇 103:2)
④神様の約束のことばに頼った。
⑤神様の恵みと愛と救いを信じた。

3.「幸せにする」約束

ヤコブは、神様の「幸せにする」という約束のみことば(創世記32:9,31:3)を信じて頼り、それを根拠にして神様に助けを求めました。神様は兄エサウとの和解を与えてくださり、互いに平和のうちに暮らすことができました。
「幸せ」とは何でしょうか。「健康、家族の繁栄、豊かな経済、平安な心、平穏な生活など」があれば「幸せ」でしょうか。創世記31:3には「幸せ」のことばの代わりに「わたしは、あなたとともにいる。」となっています。波瀾万丈であっても、救い主イエス様とともにある人、イエス様につまずかない人(マタイ11:6)、罪を赦された人(ローマ4:7)、試練に耐える人(ヤコブ1:12)、みことばに心を留め、守る人(黙示録1:3、ルカ11:28)が「幸せ」です。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように」ヨハネ20:19

弟子たちはなぜ不安だったのでしょうか。復活のイエス様は彼らに何を与えられたのでしょうか。あなたは今、平安ですか。不安がありますか。復活のイエス様は、私たちに何を与えておられるのでしょうか。

1.弟子たちの後悔

弟子たちは、職業や家族を捨ててイエス様に人生のすべてを懸けてきましたが、一番頼りにしていた先生が犯罪者として捉えられ、処刑されてしまいました。今度は自分たちが捕らえられて殺されてしまう、イエス様についてきたことは失敗だったのだろうか、これからどなるんだろう・・・。彼らは恐れと絶望と不安の中で息を潜めていました。

2.疑り
・・・彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。・・・どうして心に疑いを抱くのですか。 ルカ 24:36~49

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネ 20:29

弟子たちは、復活のイエス様に会いましたが、聖書もイエス様のことばも信じておらず、疑いを抱いてしまい、目の前の現実を受け入れることができませんでした。トマスも同様でした。問題はみことばを疑うことです。しかし、真実と現実とイエス様のことば、みことばを信じる人は幸いです。

3.平安
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。ヨハネ 14:27

イエス様は最後の晩餐の時にあらかじめ十字架の死と復活について弟子たちに説明していました。イエス様はこの世の価値観とは大幅に違う「平安」を与えて下さるので気持ちがくじけないようにと言われました。

私たちはいつも何を不安に思っているのでしょうか。イエス様は、私たちにいつも「平安」があるようにと告げられました。イエス様は、問題や不安が残っているにもかかわらず、根拠もなく気休めに言っておられるのではありません。イエス様の根拠は、神様の深淵で遠大な救いの御業がご自身の十字架の死と復活によって完成したことです。

①罪の赦し ②救いの完成 ③神様との和解 ④サタン・死の敗北
⑤イエス様の再臨 ⑥永遠の地獄からの救い ⑦永遠の天の御国

イエス様が私たちのためにいつもとりなして下さり、いつもともにいて下さるので、私たちはどんなことが起こっても平安でいられます。

・・・そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ローマ 8:31~39

あなたは人を助けるために自分を犠牲にしたことがありますか。自分には全く非がないのに、非難されて大きな損失を被り、周囲の人から疑われ嫌われても、その人のために甘んじて受けた経験です。
イエス様が捕らえられ、不当な裁判を受けて有罪となり、十字架にかけられた時、多くの人々が関わっていました。

1.群衆
・・・群衆は、イエスの前を行く者たちも・・・、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に、祝福あれ、・・・」・・・群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。マタイ 21:8~11

ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」マルコ15:14

群衆は、イエス様がエルサレムへ入城した時に、棕櫚の葉を振って大歓迎しました。しかし、総督ピラトがイエス様が無罪であることを確信して釈放しようとした時は、「十字架につけろ」と連呼しました。

2.極悪人バラバ
それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。ルカ 23:24,25

ピラトは群衆が暴動と殺人を犯した極悪人バラバの釈放を望むはずがないと思い、イエス様とバラバどちらを選ぶのかと問いかけました。しかし、群衆はバラバを選びました。降って湧いた釈放に、バラバは何を思ったでしょうか。

3.イエス様の十字架上の7つのことば
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカ23:34
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43
「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」「ご覧なさい。あなたの母です。」ヨハネ19:26,27
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」マタイ27:46、マルコ15:34、詩篇22:1
「わたしは渇く」ヨハネ19:28
「完了した」ヨハネ19:30
「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ルカ23:46

イエス様は自分の正当性を主張して罪に定めようとする者たちを逆に裁くことができたでしょう。しかし、そうはなさらず、人間の醜い全ての罪をその身に負い、やさしさを示し、赦しを下さいました。
私たちは、必死になって自分の無実を晴らそうとします。それどころか、自分が犯した罪でさえ、犯していないと嘘を言って逃れようとします。

群衆のように移り気な者、イエス様の代わりに赦された者、それが私たちです。イエス様の尊い犠牲、深い愛、限りのない赦しに感謝し、みことばが指し示す道を歩んで行きましょう。(Ⅰペテロ3:18,2:21,24)

昔の時代にこのように書かれたことは何でもみな私たちの教訓のために書かれたのであって、すなわち〔私たちの堅い、しんぼう強い〕忍耐と、聖書から〔与えられる〕励ましとによって、私たちが望みを堅く保つ〈胸にいだく〉ためです。ローマ 15:4(詳訳)

今年度は旧約聖書(創世記~マラキ書)を中心にみことばを賜りたいと思います。旧約聖書は、私たちの教訓(忍耐と励まし)のため、救いの希望をしっかりと持ち続けるために与えられています。
旧・新約聖書を貫いて与えられていることは「信仰義認」(神様の前に無罪とされ義人と認められるのは、行いによらず、キリストの贖いを信じる信仰による)です。

1.アブラハムの信仰

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。・・・彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。 ヘブル 11:8~19

・・・彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、・・・神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。・・・・。ローマ 4:17~22

アブラハムは、立派な人格者だったから救われた訳でも、賞賛された訳でも、イスラエルの父祖になった訳でもありません。ただ、神様の選びと憐れみと恵み、そして「信仰」です。

2.私たちの信仰

・・・、すべては信仰によるのです。・・・約束が・・・アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。ローマ 4:16

・・・私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。・・・私たちが義と認められるために、よみがえられました。ローマ4:23~25

私たちもアブラハムと同じ信仰によって救いを受けました。神様の選びと憐れみと恵みによるものです。

3.信じるとは従うこと

信じるとは従うこと、行動することです。信じていることが行動・生き方に現れます。私たちも信じている通りに行動しましょう。もし、ふさわしくない点があれば改めましょう。さらに栄光が与えられます。(ローマ8:30)

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。・・・信仰は行いによって完成されました。・・・ヤコブ 2:21~24

神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われます。・・・罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。・・・ヤコブ 4:6~10

ほむべきかな〈賛美すべきかな、聖なるかな〉私たちの主イエス・キリスト〈メシア〉の父なる神。その限りのないあわれみにより、死人の中からのイエス・キリストのよみがえりを通して、私たちを再び生まれさせて、いつも生きている望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ち滅びることのない〈変化《腐敗》の力も及ばない〉、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐように〔新しく生まれ〕させてくださったのです。Ⅰペテロ 1:3,4(詳訳)

1.罪ゆえの望み無き生き方

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 エペソ 2:12

罪ゆえに造り主である神様から離れ、偽りの神々を拝み、生きる意味も基準もなく、将来や後の世における希望もなかった私たちです。(聖歌451番「神なく望みなく」)

2.新生と望み

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 エペソ 2:13

私たちは、神様の一方的な憐れみによって、イエス様の血と復活による救いをいただきました。神様の側から私たちのところに近づいて来て下さったのです(エペソ2:11~22)。そして、10の祝福を与えて下さいました。
あなたはこれらを今いただいていることを信じていますか。

①罪の赦し ②神様との和解と平和 ③神様の家族 ④神様の御住い
⑤新生 ⑥生ける望み ⑦朽ちない資産 ⑧試練と信仰
⑨イエス様への愛 ⑩喜び

3.信仰によって生きる

私たちは、自分が心に信じている様にしか生きられません。せっかく素晴らしいものをいただいて、実際に所有しているのに、そのことを信じないで、あたかも何もいただいていないかのように、何も所有していないかのように生活してしまいます。
それは、前述のみことばを否定する生き方です。神様のみことばと約束を否定していては、祝福されることはありません。
真実と現実を信仰によってしっかりと見据えて、みことばに立って行きましょう。自分の感情より、みことばの方が百億倍確かです。

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ1:17

わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。ヘブル10:38,39

イエスは、献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。・・・この人は乏しい中から、持っているすべてを生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」マルコ 12:41~44

なぜ、イエス様はわざわざ献金箱の向かい側に座って、人々が献金する様子を見ておられたのでしょうか。金持ちたちが、大金を投げ入れている中、なぜ、貧しいやもめを賞賛したのでしょうか。

1.何を献げたのか
金持ちたちは、これ見よがしに、あり余る中から大金を献金箱に投げ入れていました。自分が賞賛され、評判が上がるように、人目に付くようなパホーマンスです。周囲の者たちは、彼らを絶賛していたことでしょう。
貧しいやもめは、人目に付かないようにこっそりと投げ入れました。それは、最小単位の銅貨2枚、所有額のすべてでした。

1レプタ銅貨=1/128デナリ(1デナリは1日の労賃)
1デナリ=10,000円 ⇒ 1レプタ=78円 ⇒ 2レプタ=156円

2.イエス様が見ておられたもの

イエス様は、貧しいやもめの156円の献金を見て、「彼女は、だれよりも多く投げ入れました。」と言われました。彼女は、生きる手立てのすべてを投げ入れたからです。イエス様は、金額ではなく、そこにどれだけの思いが込められているのか、彼女の神様に対する心を見ておられました。

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 Ⅰサムエル 16:7

私たちは、大金を献金した金持ちのように、神様と人に対して自分の功績をアピールし、自分の行為を正当化して、人の目や自分自身をも欺いて、真実を見ないようにすることが何と多いことでしょう。しかし、神様の目には、人の心の奥底まで明らかです(ヘブル4:12,13)。神様は、献げるものが何もないと思っている私たちをも、喜んで受け入れて下さいます。

3.自分自身をイエス様に

私たちは、大切なものは独占したいですし、それを人のために手放すことはとても難しいものです。まして、自分に所有権があり、自由にできるものであればなおさらです。
しかし、自分自身に固執すると大切なものを失い、イエス様のために自分自身を失うと、逆に見出すことができます。(マタイ16:24~26)

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。 Ⅱコリント 9:7

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。Ⅱコリント 5:15