礼拝メッセージ

万事について〔神に〕感謝しなさい〈環境がどのようであっても、感謝深くあり、感謝をささげなさい〉。というのは、それはキリスト・イエスにあるあなたがたに対する神のみこころであり〔キリストはそのみこころの啓示者または仲介者であられる〕からです。 Ⅰテサロニケ 5:18(詳訳)

クリスチャンの根本的な態度として「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい。」と勧められていますが、私たちは「いつもいつもそんなことはできない。難しい時の方が多いですよ」と反論し、できない自分に失望してしまいます。
神様は、根拠なく私たちにできないことを命じておられるのでしょうか。そうではありません。それは神様のみこころであり、イエス様によって実証済みですし、私たちにとって信仰による最善の生き方です。

1.悪意を捨てる(Ⅰテサロニケ 5:12~15,22)

1)指導者への尊敬
みことばから警告し戒めてくれる指導者へ愛を示し、尊敬し、互いに平和に過ごすよう勧められています。

2)寛容であれ
だらしのない者・わがままな者を戒め、臆病な者を励まし、弱い魂を支え、あくまでも忍耐強くあるように勧められています。

3)悪から離れよ
悪に対して、善(親切、益)で返すように勧められています。

2.環境に左右されない感謝
環境に左右されず、いつも感謝深くあるように勧められています。それは、私たちが神様の怒りからイエス様によって救われたので、生きていても死んでいてもイエス様のいのちにあずかれるからです。究極の救い、幸いをいただいているので、すべてのことについて感謝できます。

神は私たちを〔ご自身の〕怒りに〔あわせるために〕お立てになったのでは〈彼は私たちを罪に定めるために選ばれたのでは〉ありません。私たちの主イエス・キリスト〈メシア〉を通して〔彼の〕救いを〔私たちが〕得るためなのです。この〔キリスト〕が私たちのために死なれたのであり、それは、私たちが〔キリストの顕現のときに〕なお生きていようと、あるいは死んでいようと、私たちが彼とともに生きる〈彼のいのちにあずかる〉ためなのです。 Ⅰテサロニケ 5:9,10(詳訳)

3.イエス様が示して下さった神様のみこころです

イエス様は身を持って、すべてのことについて感謝する生き方を示して下さいました。神様の栄光とみこころを最優先にした歩みです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ルカ22:42

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。    ヨハネ 6:38

彼の主人は彼に言った、『みごとだ。おまえはまっすぐな〈りっぱな、感心な〉そして忠実なしもべだ。おまえは少しのものについても忠実であった。〈信頼できる者であった〉。私はおまえに多くのものを管理させることにする。主人の〔喜ぶ〕喜び〈歓喜、幸福〉にはいれ〈をともにせよ〉』。       マタイ 25:21(詳訳)

イエス様は、天の御国を「十人の花嫁」と「旅に出る主人」にたとえました。ここでは、神様から各人に預けられている「主の財産」を、終末に備えて正しく管理・運用するように勧めています。神様の信頼に応えて忠実に管理したか、不信仰で働かず管理を怠ったか、すべてを清算する日が来ると告げています。

1.主の財産

1)どんなもの?
能力、経験、時間、賜物、財産、職務、社会的信用など。

2)能力に応じて
主はみこころのままに、各人にふさわしいタラント(財産)を託して下さいました。他の人を妬んだり、自己卑下したり、優越感を持つ必要はありません。

思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各人に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
ローマ 12:3

3)各人に与えられている賜物の大きさ
タラントを現在のお金に換算すると、5タラント=3億円、2タラント=1.2億円、1タラント=6千万円になります。私たちは、主の御国の働きのために想像以上の賜物をいただいています。

2.忠実なしもべ

1)小さなものにも一生懸命
神様との関係が周囲の状況に依存せずに確立していれば、多少のことがあっても安定した揺るがない信仰生活を送ることができます。(ヤコブ1:25)

2)信頼できる者
神様が信頼して下さる者になれるとは何と幸いでしょうか。

3)主の喜びを共有する
聖書によって主のみこころを正しく理解し喜んで従える歩みは幸いです。

3.忠実な者への祝福

主は忠実な者への祝福として財産を増やし、天の御国での支配権を与えられる。(黙示録 22:5)

主は、恵みの良い管理者として、賜物を独占して自分のために使うのではなく、かえって、互いに愛して仕え合うように命じています。
(Ⅰペテロ4:7~11)

だれもまだ神を見たことはない。ただひとりの比類のないみ子、ひとり子の神、み父のふところにおられる〔すなわち父に最も身近におられる〕かた、そのかたが神を現わされた〈啓示された、目に見えるように現わされた、神を説き明かされた《知らされた》〉。ヨハネ 1:18(詳訳)

1.啓示の神様
1)自然による啓示

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。ローマ 1:20

2)聖書による啓示
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。  ヨハネ5:39

3)ご自身を啓示(神様を見た人)
ハガル(創世記16:13)、ヤコブ(創世記32:30)、モーセ、アロン、ナダブ、アビフ、70人の長老(出エジプト24:10)、イザヤ(イザヤ6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)、彼らは神様を見た人たちです。

2.神様の完全な解釈者・啓示者であるイエス様

1)永遠に存在されることば=イエス様
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 ヨハネ 1:1

2)私たちの間に住まわれた
永遠の神様であられるイエス様は、神様ご自身を説き明かし、神様のみこころを現わすために、人となってこの地に来て下さいました。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ 1:14

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。  ヨハネ 14: 9

3.現在、証しする者

1)聖霊様
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。ヨハネ 15:26

2)クリスチャン
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。    Ⅰヨハネ4:12(ヨハネ13:35)
神は、・・・、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。Ⅱコリント 5:19

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉(利己心のための※詳訳)の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 ガラテヤ 5:13

1.与えられた自由

1)何からの自由なのか
私たちは自由を与えられるために救われました。以前は何に束縛され、何の奴隷になっていたのでしょうか。罪・お金・欲望・憎しみ・悪意・自己中心・周りの評判・善行・自己満足・自分の理想などです(ローマ1:29~31)。それらの束縛からイエス様は解放して下さいました。

2)ガラテヤ教会の場合
ガラテヤの兄弟姉妹は、忍び込んできたニセ教師、ユダヤ主義者たちによって惑わされ、イエス様が与えて下さった信仰による義を否定し、行ないによる義、ユダヤ教の儀式やおきての奴隷となってしまいました。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。    ガラテヤ 5: 1

2.自由の乱用-肉に従う歩み-
しかし、与えられた自由を間違って信じてしまい、逆に救われる前の生活に戻ってしまうという問題が発生しました。恵みが注がれており、自由が与えられているなら、肉に従っても良いという考えです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪に留まるべきでしょうか。ローマ 6: 1

3.御霊による歩み
主から与えられた自由は、内住される聖霊様に従い導かれることによってのみ正しく用いられます。御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、どれも肉の考えによる自由とは相容れないものがあります。「主の奴隷となる。愛をもって兄弟姉妹が互いに仕え合う。主の弟子として訓練を受ける。人々の救いのために犠牲を払う。」これらも自由とは真逆の歩みです。
しかし、「真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)」と言われたイエス様が与えて下さっている自由です。なぜなら、真理=イエス様ですから、イエス様の奴隷となることが、すべての束縛から解放された本当の自由な歩みです。

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。       Ⅱコリント 3:17,18

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべ(神の奴隷※第2版)として従いなさい。Ⅰペテロ 2:16

オンヌリ教会日本宣教師 ナ・ムンチェ師

そこで、わが子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
多くの証人たちの前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。                     Ⅱテモテ 2:1~3

1.イエスの恵みによって強くなる

1)救われた恵み
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 エペソ2:8

2)失敗しても立ち返えられる恵み
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

3)私の中に臨んで共におられる恵み
見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。 マタイ28:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ガラテヤ2:20

2.伝えて、育てて、委ねましょう
霊的4世代モデル
パウロ→テモテ→忠実な人→他の人々

3.キリストの立派な兵士

1)神の全ての武器であるイエスを着る
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 エペソ6:12,13

2)苦しみを受けても喜びおどる
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。 マタイ5:11,12

神である主の前に静まれ。主の日は近い。  ゼパニヤ書 1:7(2版)
静まって、神様の前に立て。恐ろしい審判の日がくるからだ。(LB訳)

ゼパニヤは南王国ユダ陥落(BC587)の数十年前に活躍し、ヨシヤ王の宗教改革(BC621)に影響を与えたと考えられています。彼の預言は、主を捨て、偶像礼拝に熱心な者、主に従うことをやめた者、主を尋ね求めない者に対するさばきの預言でした(ゼパニヤ1:4~6)。
主はご自身の前に静まって待ち望むように命じられました。

1.静まるとは

1)色々と御託を並べない
傲慢になって自分勝手な言い分をくどくどと言い立てていると、静まることはできません。

2)心を整える
一旦落ち着きひと呼吸置いて、自分は何に心を騒がせ、何を不安に思い、なぜ落ち着かずにいるのか、客観的に見てみましょう。

3)主の存在を認める
しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。                        ハバクク 2:20
主は偶像ではありません。主の存在、臨在、内住を認め、今、自分が生きているのではなく、イエス様が生きておられることを認めましょう。 (ガラテヤ2:20)
2.静まると聞こえるもの

1)自然の音
喧騒から離れて静まると、野鳥のさえずり、川のせせらぎ、木々のざわめき、波の音、風の音が聞こえてきます。神様の創造の業、栄光です。

2)自分の本音
主の前に静まると、自分の本当の姿、心、思い、本音に気付かされます。自分は何を第一に求めているのか、何を大事にしているのか、本当に主を尋ね求め、本気で主に従うつもりがあるのか。心が探られます。

3)神様のお声
ゼパニヤは、主のさばきの日が近いので、主の前に静まって偶像礼拝の罪を認めて悔い改めるように預言しました。神様のお声は、聖書と聖霊様、メッセージ、証しを通していつも身近に与えられています。静まって耳を傾けさえすれば、そこにあります。

3.静まった後は歩き出す
すべての肉なる者よ、主の前で静まれ。主が聖なる御住いから立ち上がられるからだ。    ゼカリヤ書 2:13

いつまでも静まったままでは寝てしまいます。主は、私たちの祈りを聞き届けて下さり、立ち上がって私たちに伴い、みこころを行って下さいます。静まった後は、主に拠り頼んでまず一歩踏み出してみましょう。人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。  詩篇4: 2~ 5

しかし、以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。そうです。主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、ほかのものはみな、色あせて見えるのです。私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。それは、キリスト様を自分のものとするためであり、また、もはや、良い人間になろうとか、おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、キリスト様と結ばれるためです。・・・ピリピ3:7~9(リビングバイブル訳)

けれども、私は、自分に益を与えるものであったような以前持っていたもののすべてを、キリストのために、私にとっては〈一括して〉損失であると考えるようになりました。それどころか、私は、私の主キリスト・イエスを知る〈だんだんとさらに深く、さらに親しく彼を知るようになる〈さらに十分に、さらに明白に彼を知り、認識し、理解する〉という貴重な特権〈圧倒的な価値、絶大な値うち、至上の利益〉を得た〔ため〕、それに比べて、すべてのものを損失と考えるようになったのです。この〔かた〕のために、私はすべてのものを失いましたが、それらすべてをただの廃物〈くず、かす〉と考えています。それは、私がキリスト〈油注がれたかた〉を獲得する〈得る〉者になるためであり、 ピリピ人への手紙3:7,8(詳訳)

パウロはダマスコ途上でのイエス様との出会いによって(使徒9:1~22、22:3~16、26:4~18)、今までの価値観が180度変わりました。パウロがかつて、価値がある大切なもの、神様に認められるものとして誇りに思っていたものがありました。しかし、それがイエス様との出会いによって、一瞬のうちに崩れ去りました。私たちもイエス様との出会いによって新しい真に価値あるものをいただきました。

1.パウロの7つの得(もうけをとる。利を得る。有利なこと。)

1)生まれながらの4つの誇り(ピリピ3:5、Ⅱコリント11:21~23)
①生粋のユダヤ人 ②契約の民 ③ベニヤミン族 ④生粋のヘブル人
2)自ら選び獲得した3つの誇り(ピリピ3:5、6)
①パリサイ人 ②教会を迫害した ③律法による義人(自己修練)

2.パウロの価値観の転換

パウロはユダヤ主義者たちと同様に、血統、民族、律法の遵守、割礼など、人間的なものを誇りとし、自分自身にプライドを持っていました。しかし、「私の主であるキリスト・イエスを知る」と告白しているように、「迫害者・殺人者パウロ」を愛して、身代りとなって下さったイエス・キリストを個人的な救い主、主人として受入れた時に、イエス様との人格的な結びつきを経験しました。そして、イエス様の偉大さ、その愛の深さに圧倒され、今まで燦然と輝いていたプライドとしていたものが、塵芥(ちりあくた)にしか見えませんでした。

3.私たちの価値観の転換

1)イエス様を知って得たもの
私たちは、家系、血統、家族、真面目さ、正しさ、成績、親切さ、信心深さ、優越さ、プライド等々、この世の価値観によって誇っていました。しかし、イエス様の救いを受け、イエス様を主としたことによって、イエス様を知り、イエス様に知られ、自己義ではなく信仰による義、「神様の国と義を第一とする(マタイ6:33)」ことのすばらしさを知りました。

2)塵芥(ちりあくた)を拾い集めてはいないか
しかし、一度捨てた塵芥をゴミ捨て場まで行って、もう一度拾い集めてはいないだろうか。そこに落ちているのは、プライド、自己義、優越感、劣等感、肉の思い、不信仰、自分の思い等々。イエス様をもっと知ろう。

教会堂の中心に十字架があり、礼拝の中心には聖餐があります。聖餐は、この目をもってパンとぶどう酒を見るように、私たちの罪のために十字架の上で死なれた贖い主を信仰の目をもって見るためです。信仰がないと、ただの食べ物としてのパンとぶどう酒になってしまいます。

1.聖餐と過ぎ越しの祭りとの関係
イスラエル人たちは奴隷の身分からの解放という歴史的事実を記憶し続けるために、わざわざ種を入れないパンを作って食べる祭りを毎年繰り返しました。
主は、その過ぎ越しの食事の場を選んで聖餐を制定され、聖餐に過ぎ越しと同じ意義があることを伝えられたと考えられます。小羊の血がイスラエルを救ったように、神の小羊・主イエス様の血は、信じるすべての罪人を救うことになりました。

2. 「主の食卓(The Lord’s Table)」と「主の晩餐(The Lord’s Supper)」の関係

名称 主の食卓(Iコリ10:21) 主の晩餐(Iコリ11:20)
範囲 聖書全体 新約聖書のみ
主題 交わり‐祝宴 記念と死の告知-厳粛
時間 永遠のもの 一時的なもの
備え 主が用意された 信者が用意する
記述 「杯」が前、「パン」は後 「パン」が前、「杯」は後
パン キリストの体なる 教会 贖い主のからだ
意味 キリストのからだにあずかる 主を覚えて、死を告知する

3.聖餐の意味

①1つの教会に属する意味
②赦しの意味
③宣教としての意味
④終末としての意味

・我々はなぜ聖餐式を行うのか?
それは主イエス様が十字架につく前夜の最後の晩餐の席で、そうしなさいと、弟子達に言われたからです。「主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげ、それを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体です。わたしを覚えて、これを行いなさい。』といわれた」(Ⅰコリント11:23~26)とあります。

・聖餐式はなぜ必要か?
私たちが、主の十字架を目に見えるしるしとし、パンとぶどう酒に与ることによって、キリストの十字架に与ることが大切です。つまり、聖餐式は私たちの信仰が、観念的なものに陥らないために必要です。

4.まとめ‐キーワード
主の十字架による贖いに感謝をささげ、信仰者の交わりを確認し、主の苦しみを記念し、主の十字架が私たちのための犠牲であったことを確認し、主の臨在を再確認します。
主の愛と恵みに対する深い感謝と祈りをもって、聖餐式に臨ませていただきましょう。同じパンを食べ、同じぶどう酒を飲むことによって、私たち信仰者は主イエス様の犠牲によって救われ、神の家族の一員とされていることを再確認します。聖餐式に与ることは、信仰者の義務であり、幸いな特権です。
(藤島 昇)

主イエス様は、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえられました。その後、40日間弟子たちに復活を証しされて天に帰られました。その時イエス様は、弟子たちに「父の約束を待つように、世界中でキリストの証人になるように」と告げられました。(使徒1:4,5,8)

1.ペンテコステ(五旬節)の出来事

イエス様の昇天後、弟子たちが集まって祈っていたところ、聖霊様が一人ひとりに臨み、彼らは人々に外国語で福音を宣べ伝えました。

ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」  使徒 2:11

2.聖霊様の働き

聖霊様は、三位一体の第三位格である神様ご自身です。アタナシウス信条に「われらは唯一の神を三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分離することなく」とあります。 聖霊様は、私たちを新生させ(テトス3:5)、内住され(Ⅰコリント3:16,6:19)、満たして下さり(エペソ5:18)、私たちを助け、教え、導き、誤りを認めさせ、イエス様を証しされるお方です(ヨハネ14:26)。

3.聖霊様の内住

聖霊様は、私たちがイエス様を救い主として信じた時に、宿って下さいました。そして、いつも慰めと励ましと助けを与えて下さっています。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。  Ⅰコリント 3:16(ガラテヤ2:20)

4.聖霊様の満たしを求める

ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。エペソ5:18

自我(肉の思い、罪)に支配されていたかつての私たちは死んで、今は、イエス様が私たちの内に住んで下さっています。しかし、相変わらず肉に属する人のように歩んではいないでしょうか。
聖霊様に「満たされる」とは「支配される」ことを意味します。聖霊様の満たしは、主からのご命令です。主のみことばに従っていなかったことを悔い改め、すべての生活を明け渡し、満たされることを求めましょう。

5.聖霊様に満たされた人は聖霊様の実を結ぶ

聖霊様の満たしを求める人は自我が衰えて、内住されている聖霊様の実(イエス様の人格、福音伝道、賜物)が現われます。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。    ガラテヤ5:22,23

聖霊様をいただくことは一度ですが、満たされることは継続です。

母の日の起源は「1907年5月12日、アンナ・ジャービスは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った」こととされています。今日は、波瀾万丈の生涯でしたが、幸せなイエス様の母マリアについて見ていきましょう。

1.救い主の母

マリアは、受胎告知から始まり、処女懐妊、エリサベツとの交流、出産・育児、生活の中で、イエス様の不思議さとすばらしさを見ました。マリアの祈りは信仰告白でした(ルカ1:46~)。

しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。ルカ2:50,51(2:19)

2.不信仰

マリアは、イエス様のすばらしさを見ながらも、不信仰に陥ることがありました。人々のうわさを真に受けて、イエス様を疑ってしまいました。

これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。マルコ 3:21

3.心が刺し貫かれる経験

イエス様がまだ幼児の時に、愛するわが子のむごい死を宣告され、実際に十字架の前でそれを経験することになりました。

シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がるために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。・・・    ルカ 2:34,35

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、・・・が立っていた。イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、・・・その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。ヨハネ 19:25~27

4.信仰の人マリア

彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。  使徒 1:14

聖書でマリアの名前が出てくるのはこの箇所が最後です。つらい経験をしたマリアでしたが、信仰の人として記されています。カトリックが教えるマリア崇拝(マリアの無原罪、神と人との仲介者)は、聖書にはありません。彼女もイエス様を信じることによって救われる(ルカ1:46~)ひとりの人です。イエス様は最後まで母マリアを心配し大切に思っていました。

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。Ⅰテモテ 5: 8(エペソ6:2,3)