礼拝メッセージ

そうではなく、だれでも自分自身の悪い欲望〈情欲、肉欲〉に引きずられ、だまされる〈誘い出される〉とき、誘惑されるのです。そして、悪い欲望が身ごもると、罪を生み出し、罪は成熟して死をもたらすのです。ヤコブ 1:14,15(詳訳)

向上しよう、主に従って主を喜ばせよう」という欲求は、良いものをもたらしますが、悪い欲望は罪を生み出し、結果的に死をもたらします。

1.自分の欲に引かれる

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。ヤコブ 4:2,3

ヤコブ1:13(LB)では「悪事に手を出したくなった時、神様に誘惑されたなどと、言ってはなりません。」と記されています。人は、自分の悪い欲望に惹かれて誘惑されてしまいます。欲望が新しい命を宿すと成長して罪を生み出します。

2.罪が死を生む

「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神はさらに豊かな恵みを与えてくださる」ヤコブ 4: 5

欲望が以下のような罪を誕生させ、その罪は神様から引き離される死の刑罰をもたらします。徹底的に愛して下さっている神様に逆らい、世を愛することは、罪を満たす生き方につながって行きます。

①世を愛する                                          ヤコブ4: 4
②なすべきことを行わないこと  ヤコブ4:17
③律法に違反すること                          Ⅰヨハネ3: 4

3.神様の豊かな恵み

しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。Ⅰヨハネ 2:1

神様は、私たちが自分自身の悪い欲望に引きずられて信仰から離れてしまわないように、いつも注意を与えてくださっています。日々、神様の豊かな恵みの中に生きる道、信頼して委ねる道、安心して憩う道、が示されています。

①上からのものを求める     ヤコブ1:17
②へりくだる                                         ヤコブ4:6,10
③信じて委ねる                                     ヤコブ4:7,8

「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。 黙示録 7:14

天国において、イエス様によって罪赦されて救われた、すべてのクリスチャンが、神様とイエス様に礼拝を献げています。それは最終的な姿ですが、クリスチャンは今現在でも同じ恵みをいただいています。

1.罪の赦し

まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。ヘブル9:14

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。ヘブル9:22

キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。ヘブル9:26(10:10~14)

旧約聖書で神様との契約において、傷のない動物の血が用いられ、罪の赦しのためにも動物の血が要求されました。しかし、それらは不完全であり、ひな型にしか過ぎません。本物は、神様としての栄光を捨て、へりくだって人となって下さったイエス様であり、その愛に満ちた尊い十字架上の犠牲です。イエス様の贖いは、ただ一度だけ献げられた完全な贖いです。

2.共に歩む道
罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。ヘブル10:18

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。・・・ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。ヘブル10:22~25

イエス様が罪のきよめのささげ物となって下さいましたので、もはや、自分が何か努力をして認めてもらう必要はありません。ただ、へりくだって神様に近づき、神様と共に歩むこと、兄弟姉妹と励まし合って集うことに励むことです。

3.神様の守り

彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、命の水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。黙示録 7:16,17

神様は天国において完全な安息を与えて下さいます。地上にある間は私たちに対して無関心で放って置かれるというわけではありません。いつも私たちのために最善を尽くして下さり、従う者を悪しき者から守って下さいます。ほとんどの場合、私たちの罪と自我と不従順が、問題や落胆、涙をもたらします。しかし、主は、へりくだって悔い改める者、従う者を回復させて下さいます。

〈教えのことばに従いなさい〉。みことばを行う者になりなさい。ただ聞くだけの者となって〔真理に反する思いをいだいて〕自分を欺いてはなりません。   ヤコブ 1:22(詳訳)

神様は分け隔てのない、公平なお方です。私たちに等しくご自分を啓示しておられます。今日のみことばは、神様から等しくみことばをいただいても、それを心から信じて行動(生き方)に移行させるか、そのまま聞き流して行動に移さないかの違いについて教えています。

1.神様の啓示
1)一般啓示 ①自然(イザヤ40:12~14)②歴史(ローマ13:1)③良心と両親(ローマ2:14~16)

天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。詩篇19:1

2)特別啓示 ①奇蹟(ヨハネ5:36)②預言(イザヤ7:14)③イエス・キリスト(ヘブル1:1,2)④聖書(ヨハネ5:39,Ⅱテモテ3:16)⑤個人的体験(使徒9:4~6)

2.みことばを聞いても行わない人
1)自分を欺いて聞くだけ:みことばの重要性を薄々感じてはいるが、自分に対するものとは捉えずにあえて無視してしまう。
2)すぐ忘れる:神様と自分の関係(恵みと憐れみ、イエス様の愛と赦し)、自分の現状、見直すべきことを真剣に考えない。
3)この世の汚れに染まる:自分の舌を制御せずに自我を押し通し、この世と同じ価値観で生きてしまう。

3.みことばを聞いて行う人

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。エレミヤ31:33

1)完全な律法から離れない:完全な律法、自由の律法とは、愛と赦しと信頼の律法です。神様に従い、仕えることに、ひとかけらの強制も圧迫もなく、愛によって行動するところに真の自由があります。完全な律法を大切なものとして一心に見つめる人、追い求める人は幸いです。

2)行ないによって祝福される:イエス様が弟子たちの足を洗った後に、あなたがたも同様に互いに足を洗い合うなら幸いだと言われました。みことばを行う人は幸いです。(ヨハネ13:17)
3)この世の汚れに染まらない:みことばを行う人は、自分のこと(自分の利益、自分の満足、自己実現)や罪の生き方を最優先にはしません。みことばを行う人の代表者であるイエス様と同様の生き方を目指します。

偽りの律法主義ではなく、完全で自由の律法に生きて行きましょう。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。ヘブル 12:2

もしこの世に光がなければ、目の前に近づけた自分の手でさえ見えません。神様のみことばがなければ、私たちは善悪、本当に大切なこと、真理がわからず、正しく生きて行くことができません。
詩篇119篇では「律法」を「おきて、あかし、おしえ、戒め、定め、さとし、ことば、道、仰せ、さばき」という10のことばで表現しています。

1.浅はかな者を賢くする
私たちは、独立した人格と自由意思を持っていますから、自分が自分の律法となり何の規正もなく、自分の価値観のまま生きて行きます。しかし、思い通りに生きているようでも、実は、罪に支配されてしまっています。
みことばは、自分の判断が一番正しいと思っている浅はかな者を、神様の正しい道に導いてくれます。

主の教えは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。  詩篇 19: 7

命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。 箴言 6:23

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
Ⅱペテロ 1:19,20

2.イエス様に従う者はいのちの光を持つ
イエス様を心から信じ、イエス様に従う人は、自分の内側にいのちの光を持つことができます。その光はこの世と光を求める人々を照らします。

イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
ヨハネ 8:12
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。マタイ 5:14,15

3.私たちの告白
どんなにすばらしいみことばが目の前にあっても、それを自分のものとして心から信じて従う決心をしなければ、絵に描いた餅です。
みことばは、私たちに喜びと平安と希望を与え、生活と言動を導き、いのちをもたらします。

私は誓い、また、それを果たします。あなたの義の定めを守ることを。 詩篇 119:106

どれほど私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも、私の思いとなっています。 詩篇 119:97

私は、あなたのおきてを行なうことに心を傾けます。いつまでも、終りまでも。 詩篇 119:112

私たちは、喜び、悲しみ、悔しさ、寂しさ、感動など、いろいろな場面で涙を流します。最近では「涙活(るいかつ)」という言葉があり、能動的に泣くことでストレス解消を図る活動だそうです。
聖書は、神様の深い愛から出る涙や私たちが本当に悲しむべき事柄について語っています。それは「不信仰と不従順」です。

1.エレミヤの涙
BC627年から40年以上の間、預言者エレミヤ(神は確立される、派遣されるの意)は、真の神様を捨てて偶像礼拝を行なっていた民に対して、来たるべき患難(エルサレム滅亡、バビロン捕囚)、神様のさばきを警告し続けました。これらの出来事は彼が生きているうちに現実となりました。、
エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、同胞の強情さと不信仰、彼らに訪れる悲劇を深く嘆き悲しみました。「哀歌」の著者もエレミヤです。

ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、
娘である私の民の殺された者たちのために
昼も夜も、泣こうものを。 エレミヤ書9:1(9:13~16,哀歌3:48~51)

2.イエス様の涙

イエスは涙を流された。(英訳:Jesus wept.)ヨハネ 11:35

イエス様は愛するラザロが亡くなったために、涙を流されたのではありません。彼らにイエス様に対する信仰がなかったからです(ヨハネ11:33,38,40,42)。祭司長たちは、ラザロの奇蹟を見ながらも頑なになり、イエス様を殺そうと計画を立てました(ヨハネ11:47,48,53)。

エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。ルカ 19:41,42(ルカ13:33~35)

イエス様は、預言者や待望していたメシヤさえも拒否して滅びを招く、エルサレムの人たちの不信仰を嘆いて涙を流されました。

3.私たちの涙

私たちはどんな涙を流しているでしょうか。自分の悔しさ「自分が認められない、思い通りにならない、優位に立てない、プライドが傷ついた、寂しいなど」のために涙を流すのではなく、神様のみこころに添った涙が、信仰の勝利と揺るがない本当の喜びを与えてくれます。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。      Ⅱコリント 7:10,11

エレミヤやイエス様のように、家族や隣人の不信仰に涙を流す人、自分の不信仰や不従順に涙を流す人になりましょう。

嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ヤコブ 4: 9

アブラムは、繁栄した町ウルで神様から祝福の召命を受け、ハランを経由してカナンの地にやって来ました。その後、飢饉によって一時エジプトに滞在し、更に甥のロトと分かれてカナンに住みました。
アブラムが敵対する王たちとの戦いに勝利した後、主のことばが彼に臨み、励ましと契約が与えられました。(創世記12~15章)

1.恐れるな!

アブラムは何を恐れていたのでしょうか。アブラムは神様から子孫が増え、その子孫によって世界中が祝福されるという約束をいただいていましたが、子が与えられていない現状を見て失望し、神様を疑って将来に不安を持っていました。
それでは、私たちは今、何を恐れているのでしょうか。
①自分自身の救い
②クリスチャン生活
③将来の生活(経済、健康、国内・世界情勢)
④信仰が理解してもらえない
⑤家族の救い などでしょうか。

2.神様の選び
アブラムの出身地ウルでは月神ナンナルが礼拝されていました。その中で、神様はどういうわけかアブラムを選び、ご自分の民の父祖、メシヤの家系としました。彼が特段優れていたわけではなく、神様の一方的な選びでした。

①アブラムの失敗
アブラムは、自分の身を守るために妻サライを妹と偽り、妻を危険にさらしました。(創世記12:10~20、20:1~18)

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。創世記15:6

②一方的な選び
私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んで下さいました。任命責任は神様にあります。(Ⅱテサロニケ2:13、Ⅰヨハネ4:10)

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 エペソ 1:4

権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は言われる。 ゼカリヤ 4:6

3.盾はイエス様

神様は自らが、私たちの盾となってくださっているから、安心しなさいと言って下さいます。その盾は、信仰によって自分の手に取ることができ、悪しき者が次々と放ってくる不安・不信仰の火矢をすべて撃退することができます。私たちは被害や痛手を被ることなく、イエス様のもとで安心して安らぐことができます。

これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。 エペソ 4:16

死のとげは罪であって、罪は律法〔の誤用〕を通してその力を〔人の上に〕働かせるのです。しかし、私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えて〈私たちを征服者として〉くださる神に感謝します。 Ⅰコリント15:56,57(詳訳)

現代は争いを好まず、白黒をはっきりさせることより波風を立てずにうやむやに事を治めることが好まれます。相手を尊重することは大切ですが、聖書は「命と死」「勝利と敗北」を明確にしています。
私たちの信仰の歩みは、敗者の隠遁生活ではなく、すでに与えられているイエス様の勝利と命と恵みに満ちあふれたものです。

1.罪の働き
この世には「神様(創造主、三位一体、全知全能、善、聖、命)」と「サタン・悪霊・罪(悪、汚れ、死)」が存在します。サタンは神様に反逆し、神様の愛する人間を罪によって滅ぼすことを目的としています。
そして、神様が与えて下さった「律法」という良いものを悪用して、私たちに敗北感を与え、更に実際的に敗北を与えようとしています。私たちは、サタンの策略を知らないわけではありません。(Ⅱコリント 2:12)

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。Ⅰヨハネ 3: 8

2.イエス様の勝利

イエス様は十字架により、ご自身の罪なき血潮を通して私たちに救いを与え、復活によって「サタン・悪霊・罪」に対する勝利を明らかにして下さいました。「サタン・悪霊・罪」は敗北しました。イエス様の勝利は、イエス様を信じている私たちに与えられています。(Ⅰヨハネ 5:4,5)

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただキリスト・イエスを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。ガラテヤ 2:16

3.信仰的に安定した生活
私たちは、イエス様が「サタン・悪霊・罪」に対して勝利され、その勝利が自分に与えられているという事実(聖書の約束)にしっかり立つ時に、イエス様に服従する勝利と確信と安定の信仰生活を送ることができます。その生活が、この世に神様の栄光を現わします。
主にある労苦は無駄ではありません。だまされないようにしましょう。

こういうわけですから、私の愛する兄弟たちよ、確固として〈しっかりとして〉いて、動揺することなく、いつも主のわざに豊かでありなさい〈すなわち、常に主のための奉仕においてすぐれた《ぬきんでた、十分以上を行なう》者になりなさい〉。なぜなら、あなたがたの主にある労苦は実のないものではない〈決してむだなほねおりでない〉ことをあなたがたは知っている〈いつも自覚している〉からです。Ⅰコリント15:58(詳訳)

あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。 Ⅰペテロ 3:3,4

みことばは、私たちが身に付けるべきものは外面的なものではなく、内面的なものであることを教えています。

1.外面的なもの

外面的なものは、人々の目に付きやすく人々の賞賛を受けやすいものですが、それらは人間的であり一時的なものです。私たちは、それらがあれば本当の自分自身をカモフラージュして体裁を保てると安易に考え、それらを求めることに熱心になってしまいます。しかし、外面で内面を変えることはできません。

彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱(経札)を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。   マタイ 23:5

2.内面的なもの

内面的なものである「柔和で穏やかな霊」は、一見では見えませんが、朽ちることがなく、神様が価値あると認めて下さるものです。
私たちは、イエス様の救いによって内面から新しくされましたが、更に日々、信仰面・人格面で新しくされましょう。

同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。 Ⅰテモテ 2:9~11

①柔和(態度や振る舞いに険がなく落ち着きのあるさま。⇔険悪)
私たちの主イエス様は、柔和な方です(マタイ21:5)。私たちは、そのイエス様から愛と恵みと憐れみと赦しを与えられました。

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。Ⅰテモテ 6:11

②信仰
私たちの人生、生活、思考、あらゆる面で神様に信仰を置いた生き方。

神に望みを置いた女の人たちも、Ⅰペテロ 3:5

③服従
神様および神様の立てた秩序に従うことです。

そのように自分を飾って、夫に従ったのです。Ⅰペテロ 3:5

3.求めるべきもの
私たちが生活の中で求めるべきものは、自分の評判を高めるための外面ではなく、神様の前に価値のあるもの、永遠につながるもの、神様に喜ばれるものです。それらを求めると、それに加えて様々な祝福が与えられます。(夫の救い:Ⅰペテロ 3:1、マタイ6:33)

私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。 Ⅱ列王記 5:15

BC850年頃、神様は異邦人であるアラム王国のナアマン将軍と身近な人々を通して、ご自身の存在と預言者エリシャの存在をイスラエルと近隣の国々に示されました。

1.神様の証しは、無名の証し人から

①イスラエルの娘
「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」Ⅱ列王記 5:3(4:32~37)

②ナアマン将軍のしもべたち
「わが父よ。・・・あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか」 Ⅱ列王記 5:13

2.ナアマン将軍のへりくだり

①プライドを捨てた
最初、ナアマン将軍は、預言者エリシャがうやうやしく呪文を唱え、厳かな儀式を行って癒やしてくれるものと思っていました。しかし、エリシャのあまりに単純な方法に激怒して帰ろうとしましたが、しもべたちの進言に考えを改め従いました(Ⅱ列王記5:11~14)

②神様だけを礼拝
真の神様の偉大さを体験したナアマン将軍は、偶像崇拝の環境の中でも真の神様のみを礼拝する信仰へと変えられました(Ⅱ列王記5:17~19)

3.預言者エリシャの信仰
農夫エリシャは、預言者エリヤの後継者として召され、預言者として活躍しました(Ⅰ列王記19:15~21)

①神様の存在を証し
預言者エリシャは、偶像崇拝に侵されていたイスラエルのヨラム王と国民に神様の存在を証ししました
(Ⅱ列王記5:8~10)

②報酬を求めない
「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。 Ⅱ列王記 5:16

預言者エリシャ、ナアマン将軍、無名の人々は、現在の私たちに歩むべき道を示しています。

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。
私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。 詩篇 100:3

あなたがたは互いに愛し合いなさい。・・・あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのようになります。 ヨハネ13:34,35

・・あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。マタイ10:7,8

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。 Ⅰテサロニケ 5:16,17,18

神様は、私たちが「喜び、祈り、感謝」することができるように「創造、贖罪、救い、赦し、恵み、哀れみ、勝利、天の御国など」すべての良きものを与えて下さいました。
「喜び、祈り、感謝」することは、すべての人にとって、主のみこころですが、私たちクリスチャンの特権です。

1.「喜び、祈り、感謝」は信仰
信仰がなくては神様に喜ばれることはできません(ヘブル11:6)。そして、信仰がなければ「喜び、祈り、感謝する」ことはできません。

①喜び―みことばへの信頼
いつも主にあって喜びなさい。 ピリピ 4:4

②祈り―イエス様への信頼
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。 エペソ 6:18

③感謝―父なる神様への信頼
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。エペソ 5:20

2.「不平、不満、つぶやき」は不信仰

神様の大いなる愛・みわざを疑い、不信仰になっていては、何も良きものは生まれません。また、兄弟姉妹や教会に対して不平不満やつぶやきが出てくると、「喜び、祈り、感謝せよ」との主のみこころからどんどんかけ離れた信仰になっていきます。

また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって、滅ぼされました。Ⅰコリント 10:10

3.信仰の歩み「喜び、祈り、感謝」

①兄弟姉妹を喜びとする歩み
兄弟姉妹の信仰を喜びとする信仰、兄弟姉妹を喜ばせる信仰を喜びとする信仰の歩み。

私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。  Ⅰテサロニケ 3: 9

②私たちを守る「喜び」
「喜び」は、私たちを悪しきものや危険から守ってくれます。

主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。ピリピ 3:1