礼拝メッセージ

明日21日は敬老の日です。日本の総人口は1億2,600万人、高齢者(65歳以上)は3,580万人、総人口に占める割合は28.4%です(総務省統計局2019.9.15)。高齢者人口の割合は世界1位です。聖書では年配者としての生き方、年配者に対する態度について教えられています。

しかしあなたは、正しい〈健全な〉教えにかなう〈ふさわしい〉事《真のキリスト者であることを示す品性と正しい生活》を教えなさい。テトス 2:1(詳訳)

1.年配の男の人
老人たちには、節制し、尊厳を保ち〈謹厳で〉、思慮深く、自制し、信仰にも愛にも、また〔キリストの〕堅実さ〈忍耐〉にも、健全さを保つように勧めなさい。テトス 2:2(詳訳)

最近、高齢者男性の常軌を逸した事件が多発しています。聖書では、神様のことば、聖書が信用を失わないように、年配のクリスチャン男性には、救い主イエス様を主と告白している者として、自制して堅実で健全な生活を送るように勧めています。

2.年配の女の人
また年老いた女たちにも、同様に、神聖な奉仕をする者にふさわしく、行動において敬けんで〈うやうやしく〉あり、人をそしらず、酒の奴隷とならないように勧めなさい。彼女たちは良い助言を与えるべき者〈何が正しいもの《尊いもの》であるかを教える者〉であるべきです。それは彼女たちが若い女たちを知恵を用いて訓練して、若い女たちが、穏健な、慎み深い考え方をする人〈穏やかな、しつけの良い人〉となるように、また〔彼女たちの〕夫と〔彼女たちの〕子どもたちを愛し、自分を制し、純潔で、家を整え、善い性質で〈情け深く〉、自分を夫に順応させる〈従わせる〉人となるためです。・・・ テトス 2:3~5(詳訳)

高齢の女性クリスチャンに対しては、若い姉妹方や、信仰歴の浅い姉妹たちの模範となり、助言し、教え、訓練するように勧められています。それは、若い姉妹たちが、家庭では夫と子供を愛し、夫に従い、家庭を治めるようになるためです。

3.神のことばが悪くいわれないように
・・・それは、神のみことばが非難にさらされない〈けがされない、信用を失わない〉ためです。テトス 2:5(詳訳)

これらはすべて、神様の栄光のためです。私たちが、「神様はすばらしい。イエス様はすばらしい救い主。」と口先で言っても、聖書の教え、自分の信仰告白にふさわしく生活していないのであれば、神様のことば聖書が非難を受けることになります。クリスチャンにふさわしく、父母を敬い、神様の秩序を尊重しましょう。父母を侮ることは、神様とイエス様を侮ることです。

自分の父をののしり、自分の母をたたえない世代。自分をきよいと見るが、汚物を洗い落とさない世代。なんとも、その目が高ぶり、まぶたが上がっている世代。箴言 30:11~13
自分の父を嘲り、母への従順を蔑む目は、谷の烏にえぐり取られ、鷲の子に食われる。箴言 30:17

エペソ人への手紙は、パウロが西トルコ地域の諸教会宛てにローマの獄中(軟禁状態)から送ったものです。エペソ市は、ローマ・アジア州の政治、文化、商業、宗教の中心的な大都市であり、大女神アルテミス(ディアナ、ダイアナ)の神殿がありました(世界七不思議のひとつ)。
エペソではパウロの数年間の開拓伝道により、教会が立てられました。使徒の働き19章には、パウロの説教によってアルテミス像で商売をする銀細工人たちが暴動を起こしたことが記されています。パウロはエペソの兄弟姉妹に、人が作った偶像ではなく、創造主の愛と計画、救い主イエス様の十字架の死と復活、行いではなく信仰によって救われたこと、更に、救われた者の一致とそれぞれの生き方について教えています。
エペソの教会については、御霊からメッセージが与えられた7つの教会の1つとして黙示録2: 1~7にも登場します。

1.選ばれた者

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。エペソ 1:4

エペソの兄弟姉妹は、宗教都市エペソの命なき神話の神々(偶像)ではなく、天地を造られた真の神様、救い主イエス様の十字架の死と復活、主の選びとあわれみとご計画によって救われました。

2.教会とは

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。エペソ 1:23

このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。エペソ 2:21,22

教会は建物でも人の寄り集まりでもありません。栄光のイエス様がおられるところであり、イエス様ご自身そのものです。更に、聖霊様に導かれて共に仕え合い、助け合って信仰を深め、聖化されていくところです。御霊の一致は、聖霊様の恵みですが、何もしなくて自動的になるものではありません。熱心に真剣に努力するように命じられています。

み霊〔がつくり出してくださった、み霊〕の調和〈一致〉を守る〈保つ〉ことに、熱心になり〈真剣に努力し〉なさい。エペソ 4:3(詳訳)

3.信仰による神様の計り知れない力
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。・・・人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。・・・私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、・・・栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。エペソ 3:17~21

私たちは、「信仰」という喜びと感謝に満ち溢れた不思議な歩みの中にあります。全き信頼をもってイエス様の支配を受け入れ、みことばの約束を疑わずに心から信じるならば、イエス様が心の主導権を握ってくださいます。主は、私たちの理解能力を超えたご自身の愛を理解させ、私たちの願望をはるかに超えた祝福を与えてくださいます。(ピリピ 4:6,7)


兄弟たちよ、もしだれかが何かのあやまち<罪>に陥ったならば、〈聖〉霊の人〈聖霊に応答し聖霊に支配されている人々〉であるあなたがたは、自分もまた誘惑されることのないように自分自身に注意深く目を留めることをやめないで、少しの優越感も持たないで〈柔和の限りを尽くして〉、その人を正しくする〈引き戻す〈元どおりにする〉ことをしなければなりません。ガラテヤ 6:1(詳訳)

ガラテヤ地方諸教会の兄弟姉妹たちは、ユダヤ主義者の偽りの教えによって、信仰ではなく律法遵守と自助努力による義を追及してしまいました。パウロは、その信仰姿勢の根本的な間違いを指摘し、律法・肉・罪の奴隷になるのではなく、キリストにある自由・信仰による義・信仰による律法の成就を教えました。

1.信仰による律法の成就
お互いの重荷〈煩わしい道徳上の失敗〉を負い合い〈耐え合い、にない合って〉、そのようにしてキリスト〈メシヤ〉の律法を成就しなさい〈完全に実行しなさい〉〈〔キリストの律法に対するあなたがたの服従において〕欠けているところを完全にしなさい〉。ガラテヤ 6:2(詳訳)

律法主義は、傲慢と軽蔑、自己満足と自己卑下しかもたらしません。律法を重んじているようで、実のところ律法に反し、律法の要求から遠ざかっています。相手の失敗を自分がへりくだって被ることが、律法を成就することです。

2.うわべだけの謙遜に潜む高慢
もしだれかが〔自分でそう思っているだけで、実は何も人にすぐれたところのない〕取るに足らない人間でありながら、自分をひとかどの人物〔として、自分は重要な人物であるから他人の重荷に手を貸すほどに低くなることはできない〕と思っているならば、その人は自分自身を欺いて〈だまして〈ごまかして〉いるのです。ガラテヤ 6:3(詳訳)

「私は人を助けるほど力のある者ではない、なぜ私があの人の重荷を担わなければならないのか」と、私たちは、人を生かし、人のために自分が損をすることを暗に嫌がるものです。しかし、それは神でありながら人となられて十字架の死にまで従われたイエス様のへりくだりとは真逆の態度です。

3.特に信仰の家族に
それですから、私たちは機会〈好機〉が与えられるときはいつでも、あらゆる人に対して〈道徳的に〉善い事をしましょう〔彼らに対して、ただ単に役にたつ、利益となる、だけでなく、その人々の魂のために良い事また益になる事を行いましょう〕。特に信仰の家の人々〈あなたがたといっしょに神の家族に属している人々、信者たち〉のために〔祝福となるように心がけなさい〕。ガラテヤ 6:10(詳訳)

思いやりの心と行為は、自分と相手の心身を健康にします。神様は、私たちと兄弟姉妹と隣人が健康で幸いであるように願っておられます。

あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。箴言 3:27



ガラテヤ人への手紙は、パウロおよび一緒にいる兄弟たちから、ガラテヤ地方(現在のトルコの中央部)の諸教会に宛てて、AD47年頃に書かれた手紙です。新約聖書の手紙の中で最初に書かれた手紙です。
これらの諸教会はパウロの開拓伝道によって立てられましたが、後に入り込んで来たユダヤ人教師たちの偽りの教えによって、危機的状況にありました。パウロはその信仰の危機を指摘し、自らの使徒職弁明、信仰義認の論証、キリストにある自由、御霊の実、キリストの律法について書き送りました。

1.パウロの弁明
人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。 ガラテヤ 2:16

入り込んで来たユダヤ人教師たちは、パウロが宣べ伝えた信仰による救いではなく、異邦人もかつてのユダヤ人のように割礼を受けて律法を守らなければ救われないと教えていました。パウロはそのような偽の福音を伝える者は呪われると厳しく戒めました(ガラテヤ 1:8,9)。さらに、かつて自分自身が律法に厳格なユダヤ主義者として教会を迫害するほどであったが、復活のイエス様にお会いして、行いではない信仰による本当の救いを受けたこと、使徒とされたことを証ししました(ガラテヤ 1:11~24)。

2.人はなぜ律法が好きなのか
人はなぜ一見厳しくて窮屈そうな律法主義に陥りやすいのでしょうか。
3つの理由が考えられます。

1)安易な道だから:外見的、形式的に守っていれば人からとやかく言われず、人目に良く見える。
2)人を裁きたいから:自分が外見上守っていれば優越感を持って人を見下すことができる。
3)神様に服従したくないから:心から神様に従っていなくても、従っているように見え、自分が律法を守っているというプライドを持って自己中心で生きられる。

3.肉によっては完成しない
あなたがたはそんなにもばかな〈分別のない〈愚かな〉のですか。〈聖〉霊によって〔新しい生活を霊的に〕始めたのに、今、肉に〔より頼んで〕完全に到達しようとするのですか。ガラテヤ 3:3 (詳訳)

パウロはガラテヤの兄弟姉妹に対して「愚かなガラテヤ人」(ガラテヤ3:1)と呼びかけます。あんなにはっきりと十字架上のイエス様を教え、自分たちもはっきりと救い主イエス様を霊の目で捉えて救いを確信したのに、なぜ、あっさりとイエス様を捨ててしまったのか、なぜ、聖霊様によって始まった信仰の歩みを自分の努力・肉の力で完成させようとしているのか。パウロは、救いとクリスチャン生活の基本中の基本である「信仰義認」を改めて教えています。

律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。ローマ 3:20


あなたはどんな人に、どんなクリスチャンになりたいですか。その理想像に近づくために、何をしたら良いのでしょうか。そのヒントが今日の中心聖句Ⅱコリント13:5に秘められています。

1.変わらない聖書の教え
パウロが2度目の手紙を送った後も、コリント教会の深刻な問題は解決されずに残っていました。パウロは悔い改めなかった信者に対して、厳しい口調で警告し、訓戒を与えました(Ⅱコリント13:2,3)。聖書の教えは、当時も今も私たちに訴える神様の言葉です。たとえ2000年前のコリント教会の信者が抱えていた問題であっても、時間と民族を超え、すべての信者に訴える神様の言葉として私たちの生活に適用されます。

2.自分を吟味する
「信仰に生きているかどうか」―自分の現在の信仰を見直しましょう。あなたは自分の内に主イエス様がおられることを、自分で認めていますか。
聖霊様が私たちの内に住んでおられることにより、以前は感じなかった罪(悪い言葉や感情)に気づかせ、心に痛みをもたらします。これらのことに気づいて生きるなら、信仰に立っていると言えるでしょう。自分の感情に支配されたり、自分の考えを聖書の教えより優先したり、内住される聖霊様を忘れたり、無視したりして、信仰を持つ以前の生活に戻らないようにすることです。


1)他の信者と比較するのではなく、自分を調べる。(試し,吟味:現在形)
2)理想は高く、日々コツコツと・・・・。
3)弱そうでも強い自分になれる。

3.自分の弱さを認める
最も重要なことは、自分の人生は完璧ではなく、聖書の教えと自分の行動には開きがあることを素直に認めましょう。確かにそういう自分を見るとクリスチャンとして情けなくなって、がっかりしますが、私たちが主のもとに行くときまで、工事中の「頭を下げている人」の看板と同じです。 主が地上に「キリスト教会」を置いてくださったのは、キリストを頭として集うところに、励ましと慰めと助け合いがあるからです。ここにキリスト教会の素晴らしさがあります。次の2点が究極のテストです。


1)あなたは、失敗したりつまづいた時にイエス様に目を向けますか? 
2)あなたにとって、イエス様の死と復活は唯一の希望ですか?


あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。(Ⅱコリント 13:5 口語訳)

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。ーあなたがたがそれに不適格であれば別です。ー(Ⅱコリント 13:5 新改訳第二版)

Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves.  Do you not realize that Christ Jesus is in you-unless, of course, you fail the test?  (ⅡCorinthians 13:5  NIV) (藤島昇兄)



パウロはコリント教会を最も心配してテモテを派遣し、第一の手紙と「悲しみの手紙」を送り、その後自身も訪問し、テトスをも派遣しました。
コリント人への手紙第二は、派遣されていたテトスがもたらした「問題一部解決」の報を受けて書き送ったものです。コリント教会の最悪の事態は避けられましたが、パウロは、偽教師によるパウロの使徒職と権限の否定に対する弁明、さらに、キリストにある苦しみと復活の希望についての教えを伝える必要がありました。

1.パウロの使徒職
私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。Ⅱコリント 4:5

偽教師たちは兄弟姉妹を惑わして、パウロの使徒職やコリント教会に対する権限を否定し、自分たちの偽りの教えを持ち込んでいました。パウロはコリント教会を立て上げて仕えてきましたが、兄弟姉妹から否定されたため弁明します(Ⅱコリント12:15)。コリント教会は信仰と霊の指導者、神様の立てた秩序を否定し、混乱と不信仰に陥ってしまいました。

2.キリストにある苦難と復活の希望
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。・・・私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 Ⅱコリント 4:14~17

パウロは「一時の軽い苦難」と言っていますが、一連の伝道旅行では命の危険に何度も遭遇し、偽兄弟からの苦しみも受けました(Ⅱコリント11:23~28)。彼には主の慰め(Ⅱコリント1:5)と復活の希望と使命がありました。

「キリストのために喜んで苦難を受けようとの思いが、私たちのキリストに対する愛の純正さを証しするのである。」『日毎の聖書』ジョン・ストット著 P665

1)人々に感謝があふれ、神の栄光が現れるように。(Ⅱコリント4:15)
2)イエス様のために生きる。(Ⅱコリント 5:15)
3)和解のことばを委ねられた。(Ⅱコリント 5:19)

3.聖さを求める
愛する者たちよ、こういうわけでこの〔大きな〕約束が私たちのものなのですから、私たちは体と霊とをよごす〈汚す〉あらゆるものから自分自身をきよめて神をおそれて〈かしこんで〉〔私たちの〕聖別を完全なものとしようではありませんか。Ⅱコリント 7:1(詳訳)

パウロは、道徳的な面からではなく、神様からの大きな約束である「イエス様による罪からの救い、神様が父となり、私たちは息子、娘となった。」ことを前提として、汚れと決別して聖められる道を追求するように命じています。クリスチャンとこの世とは価値観は全然違いますが、私たちは、この世から孤立して禁欲・律法主義になるのではなく、汚れに染まらずに優しさと思いやりを持ち、福音を伝えるために相手の立場に立ち、尊敬して仕えることです。


コリント人への手紙第1の後半は、聖霊様の賜物、愛、死者の復活、エルサレム教会への献金、兄弟姉妹へのあいさつなどが記されています。そのなかで、人にとって最も大切な3つのことが教えられています。



1.聖霊様の賜物
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。・・・知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力、Ⅰコリント 12:7~11



私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、・・預言、奉仕、教え、勧め、分け与える、指導、慈善・・ローマ12:6~8



聖霊様の賜物は神様がすべてのクリスチャンに与えて下さっている尊いものです。パウロも「あなたがたみなが異言、預言することを願います。」(Ⅰコリント14:5)と言っています。しかし、それは個人が称賛されるためのものではありません。皆の益となり、教会が成長するためのものです。



2.死者の復活
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。・・・私たちの罪のために死なれたこと、・・・三日目によみがえられたいこと。・・・ Ⅰコリント 15:3~6(15:12)



私たちが信ずべき大切なことは、リアルにイエス様が私たちの罪のために十字架で死なれて三日目に復活されたことです。
ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。Ⅰコリント 15:52



さらにパウロは、信じる私たちのリアルな復活についても知らずにいてほしくないと言っています(Ⅰテサロニケ4:13~18)。
私たちが信ずべきもう一つの大切なことは、携挙によってイエス様とお会いし、後の世において永遠にイエス様とともにいることです。



3.愛がないなら無に等しい
私が山を動かすことのできるほどの〔十分な〕信仰を持っていても、愛〔私のうちにある神の愛〕を持っていないなら、私は無に等しい者〈無益なつまらない者〉です。・・・自分のからだを焼かれるために〈自分の栄光のために〉渡しても、愛〔私のうちにある神の愛〕を持っていないなら、私にはなんの益にもならないのです。Ⅰコリント13:2,3(詳訳)



「愛の章」と言われるⅠコリント13章では、どんなにすばらしい信仰や奇跡の賜物や自己犠牲があっても、自分のうちに神様の愛がなければ、存在そのものが全否定されると教えています。しかし、私たちは、神様と兄弟姉妹に愛され、神様と兄弟姉妹を愛しています。



愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 Ⅰヨハネ 4:11


「コリント人への手紙」はパウロによって、AD57年頃の春に第1の手紙、冬に第2の手紙が書かれました。コリントはギリシアでも有数の都市、交通の要衝であり、偶像の神殿が数多く建てられた富と快楽の町でした。  コリントの教会には分裂、近親相姦、会員同士の訴訟事件、自由の濫用、礼拝での混乱、結婚・独身、偶像にささげた食物、女性の地位、聖霊の賜物、死者の復活など、多くの問題がありました。



1.コリント教会の無秩序
繁栄と快楽の町コリントにあった教会には、様々な人間的思考や言動が蔓延していて、みことばの教えや神様が立てた秩序は軽視されていました。パウロはイエス様の命令でもあり教会の本質である、みことばの教えを守り行うことと兄弟姉妹の一致を強く命じました。すべての問題は教えと一致を軽視するところから始まります。



さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。 Ⅰコリント 1:10

2.賞を得るために
・・・あなたがたも賞を得られるように走りなさい。・・・私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分の体を打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。 Ⅰコリント 9:24~27



パウロは、コリントの兄弟姉妹に対して、この世と調子を合わせて同じような生き方をするのではなく、天に目標を定めた無駄のない的確な歩み方をするように勧めています。それは、充実した人生を約束する処世術でも、お勧めの生き方でもありません。すべての人の永遠の祝福とさばきにつながる現実的な問題です。



3.自分ではなく他の人を喜ばせる
ユダヤ人にもギリシア人にも神の教会にもつまずき〔を与えて、妨げ〕になることのないようにしなさい〈あなたがたの生活のしかたによって、他の人を罪に陥らせてはなりません〉。私もまた、私のするあらゆる事において、すべての人〔に自分を順応させて、彼ら〕を喜ばせること〈他の人々の意見、希望、利益に自分自身を適応させること〉に努めており、多くの人々が救われるために、自分自身の利益〈便宜〉を目当てにしないで〈考えないで〉、彼らの利益を目当てにしているのです。Ⅰコリント10:32,33(詳訳)



パウロは「計り知れない栄光に富んでおられたイエス様は、へりくだられてしもべとなり、十字架の死にまで従われました。ご自分ではなく父なる神様と私たちを喜ばせるためにご自身を捨てられました。そうであれば、無に等しい私たちが主と隣人に仕えさせていただき、主と隣人を喜ばせるためにへりくだってしもべとなることは当然のことです。」と教えます。



キリストは、・・・ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。・・・十字架の死にまで従われました。ピリピ 2:3~11

先週は、「ローマ人への手紙」の第一部1章~11章「教理編」でキリスト教の教理的真理「信仰義認」を見ました。今週は、第二部12章~16章「信仰の実践・生活編」から信仰生活の原理(12:1,2)と実践(12:3~21)、社会生活の原理(13:1~13:14)と実践(14:1~15:13)、私信とあいさつ(15:14~16:27)を見ていきましょう。第一部は信仰による義でしたが、第二部は信仰による喜びと平安と希望です。
1.信仰生活の原理と実践
1)原理(12:1,2)
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 ローマ 12:1

信仰生活の原理とは、自分自身を神様に献げることであり、神様のみこころのもとに身を置いて、神様にすべてを支配していただくことです。
私たちは完成された者ではないので常に変えていただかなければなりませんが、神様の喜ばれることを見分けていくことができます。
2)実践(12:3~21)
兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。ローマ 12:10,11
信仰生活の実践では、私たちが自己中心に陥りやすいこと、私たちはイエス様をかしらとした尊い御体の各器官であることが前提とされ、主、兄弟姉妹、敵にもへりくだって仕えるように命じられています。
2.社会生活の原理と実践
1)原理(13:1~13:14)
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。・・・権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。ローマ 13:1,2
社会生活の原理とは、神様が定めた国や社会の権威・法に従い、義務(教育、勤労、納税)を果たし、隣人を愛する品位ある生活です。
2)実践(14:1~15:13)
すから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。ローマ 14:19
社会生活の実践では、互いにさばき合うのではなく、弱い人、意見の違う人を受け入れるように勧められています。
3.信仰による「喜び」「平安」「希望」
私たちの神様は、創造と救いと復活の「希望の神様」です。「喜び、平安、希望」は信仰と聖霊様によって与えられます。神様の喜びを自分の喜びにすることが最も幸いなことです。しかし、不信仰から来る「自己憐憫」は、「自分はこんなに頑張っているのにあの人はやっていない。私は人からも神様からも評価されていない。」と信仰を蝕んでいきます。
主に信頼し 善を行え。地に住み誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 詩篇 37:3,4    (ローマ12:8)

マルティン・ルターから始まった宗教改革によって新たに確認された信仰―それが今日使われている「信仰義認」という言葉です。

「ローマ人への手紙」は大きく二部構成になっています。パウロは第一部1章~11章の「教理編」でキリスト教の教理的真理を詳しく説き起こし、第二部12章~16章の「信仰の実践・生活編」で教理を実践としてどのように展開するのか、キリスト者はその生活の中で信仰をどう具体化していくのか、数々の勧めを記しています。
1.「義」という漢字
神学者の北森嘉蔵は「義」という漢字に注目しています。「義」は、羊と我という字からできています。上は「羊」、下の「我」は私という一人称を意味する字ではなく、武器の「戈」(ほこ)を表す象形文字が原形で、これにギザギザとした鋸状の刃を付けた象形文字が「我」という字だといいます。「義」の旧字体は「羲」。白川静『常用字解』によると、犠牲にする羊を鋸(のこぎり)で切り分けた際、祭壇の下に羊の後ろ足が垂れている形だと解説されています。このように「義」は、羊を自らの代わりに神への献げ物として鋸で切り開き、その命を犠牲として捧げることで、神との関係を整えようとしたことを表す字です。「犠牲」という字にも「義」が入っていますが、これは羊のみならず、牛もいけにえとしたこと、「牲」は牛を生きたままいけにえとしたことを表しています。
漢字の背景にあるのは古代中国の宗教行為でしょうが、これと同じく犠牲の献げ物は、旧約聖書時代、神殿祭儀においても重視されていました。後に神殿が崩壊し、祭儀は動物犠牲ではなく、律法を中心とした礼拝行為へと変遷します。

2.信仰による「義」
これらの宗教的な変遷の全てを乗り越え、全ての人の罪の贖い、誰もが与ることのできる救いを完成させるために、イエス・キリストの十字架での死、そこで流された血があったのです。これが23節以下に語られているパウロの信仰です。

「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」ローマ 3:22

ユダヤ人、異邦人、優等生、落ちこぼれ、どんな人であっても、神の義を受け取るという点において、何の差別もありません。これは、驚くべき神の義の現れです。「義」「義とされる」は、元は裁判で使われていた言葉です。裁判の場に、被告が立たされて判決を受ける時、有罪か無罪かの決着がつけられます。その裁判で無罪の判決が下り、裁判官から無罪放免が告げられます。別の言い方をすれば、太鼓判を押されたということです。
私たちは人から自分がどのように評価されるのかを気にします。有名な人や権威ある人から価値があると認められると、うれしくなります。しかし反対に評価されないと、自分でも価値がないと考えて、惨めな思いを持ちます。しかし、神様が私たちをどのようにご覧になっておられるのかが問題です。神様が、太鼓判を押してくださっています。「あなたは価値がある。あなたは生きてもよい。」そう言って私たちをご自分のものとして受け入れてくださっています。それが神の「義」です。(藤島 昇 兄)