礼拝メッセージ

あなたがたの祈り〔の生活〕に真剣でありなさい〈うむことのない《ゆるぐことのない》ものでありなさい〉。感謝をもって〔祈ることに〕油断しないで〈〔また〕心を集中させて〉いなさい。コロサイ 4:2 (詳訳)

祈りの生活とは、主イエス様に頼る生活です。自分に都合の良い結果を神様に無理矢理に求めることではありません。祈らない生活とは、主イエス様に頼らない、自分の思いのままに歩む生活です。
聖書は、油断することなく、主イエス様に真剣に祈り頼る生活をするように命じています。

1.目をさましていなさい

・・・誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。・・・。 マタイ 26:36~46

主イエス様は、ゲッセマネの園で十字架刑を目前にして、苦しみもだえながら祈っておられましたが、ペテロとヤコブとヨハネは三回も眠りこけてしまいました。目を覚まして祈っているようにと命じられましたが、主イエス様の十字架は所詮他人事でしかなく、自分の力を過信した彼らは一時も祈ることができませんでした。。
怠惰で眠りこけると、正しい判断ができず、誘惑に負けてしまいます。(箴言 6:6~11)

2.失望してはいけない
イエス様は人でなしの裁判官のたとえから、温情深い神様に祈ることの正当性、大切さを教えられました。

いつも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、・・・「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。・・・まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのために・・・。ルカ 18:1~8

3.継続する祈りの生活
聖書は、苦難の中でも忍耐してひたすら祈るように命じています。継続してひたすら祈るとは、主イエス様に頼り続けることを意味します。主イエス様に頼ることをやめてしまったら、滅びの道へ真っ直ぐに進んで行きます。

・・・。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。・・・。 ローマ 12:9~21

主イエス様が良くしてくださったことを、何ひとつ忘れてはいけません(詩篇103:2)。主は良いことしかなさいませんので、私たちは、感謝をもって、あきらめずに祈り続けることができます。

・・・
主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。
・・・                  詩篇 103:1~5

孫は老人の自慢の種、父親は子供の尊敬の的です。箴言 17:6 (LB訳)

明日は「敬老の日」です。1965年「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」として国民の祝日に制定されました。
聖書では一貫して、目上の人、老人に敬意を払い大切にするように命じています。それが私たち自身の祝福と平安と長寿につながります。

あなたを生んだ父の言うことを聞け。
あなたの母が年老いても蔑(さげす)んではならない。
真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と分別も。
正しい人の父は心躍らせ、
知恵のある子を生んだ人はその子を喜ぶ。
あなたの父と母を喜ばせよ。
あなたを産んだ人を楽しませよ。
箴言 23:22~25(30:17)

.父母への尊敬
聖書は十戒の第五戒、対人関係における最初の戒めとして「両親への尊敬」を挙げています。私たちは、両親を通して命が与えられ、自分自身で生きることができなかった時に、生きられるように世話をしていただきました。両親、祖父母は命の恩人です。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。  出エジプト 20:12

2.目上の人、老人への尊敬
聖書は神様を恐れることと老人を敬うことを同様に大切なこととして命じています。地位や立場、能力、財力、人間性に関係なく、目上の人を尊敬しなければなりません。神様はそのような秩序を重んじています。

あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 レビ記 19:32

3.父母を喜ばせる生き方
聖書は父母を喜ばせる生き方をするように命じています。旧約聖書の律法では、父母に逆らう放蕩者は石打ちの刑に処せられました。(マタイ15:4)
父母を喜ばせる生き方、それは、父なる神様をも喜ばせる生き方につながっています。父母を大切にしないで、神様を大切にすることはできません。

ただし、どちらかを選ばなければいけない時は、イエス様を選びましょう。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 マタイ 10:37

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。ピリピ人への手紙 4:4

パウロは、自らが囚われの身となって、獄中という大変な状況にありながら、なぜそこまで自らが喜び、しつこいくらいに「喜びなさい。喜びなさい。」と命じているのでしょうか。

1.「喜び」の根拠
私たちには主イエス様の十字架と復活による救いが与えられています。主イエス様の十字架を信じないで、地上のことだけを考えて自分の欲望に従う人は、永遠に滅ぼされてしまいます。

1)私たちの国籍は天にある。           ピリピ 3:20
2)主は近い。〈主はすぐにおいでになります。詳訳〉ピリピ 4: 5
3)神様の平安がある。              ピリピ 4: 7

2.主にあって
パウロが命じているのは、あくまでも「主にあって」ということが前提です。主のみことばと約束、主に対する服従抜きの、自分中心の歩みでは
到底喜ぶことはできません。「主にある」とは次の生き方です。

1)主のみことばと約束を信じる
2)主の弟子に倣う生き方                     ピリピ 3:17 
3)主に頼る           ピリピ 4: 6

3.第2のパウロに
人は、自分の思い通りに生きられれば、いつも喜んで生きられると思いがちです。しかしそこには、不平不満と相手のせいにする悪意しか生まれません。
パウロは「私に倣いなさい」と言いました。パウロに倣うとパウロのように、逆境の中でもイエス様を仰ぎ見て喜ぶ人になることができます。そして、そのような人は、逆境の中で意気消沈している人に、「私に倣ってください」と励ますことができます。
逆境の真っただ中でも、主のみことばと約束を信じて喜ぶことは、信仰の歩みにおいてとても安全な道です。そこには、不平不満、不信仰、みことばに従わない自分勝手な歩みなどの入り込む隙がないからです。

私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。  ピリピ 3:1

主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 詩篇 37:4

どうか、キリストが、あなたがたの信仰を通して、あなたがたの心のうちに〔現実に〕住んで〈定住して、滞在して、そこをご自身の恒久的な家として〉くださいますように。どうか、あなたがたが、愛の中に深く根をおろした者となりますように〈愛の上に基礎を堅く据えられた者となりますように〉。    エペソ 3:17(詳訳)

パウロは、私たちのうちにキリストが一時的な仮住まいではなく、永住してくださるようにと、とりなしの祈りをしています。全てのクリスチャンは、イエス様の救いを信じた時に聖霊様の内住をいただきました。聖霊様=神様の霊=キリストの霊(ローマ8:9)ですから、イエス様が内住してくださっているということができます。

1.信じる者に内住される聖霊様
イエス様が救いを成し遂げられ、復活し、昇天された後、聖霊様が降臨されました。聖霊様は信じる者に内住し、イエス様の栄光を現しておられます。主は、慰め・励まし・助け・みことばの解き明かし・導きを与えてくださいます。

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。 ヨハネ 7:39

2.私たちが仮住まいとなる場合
内住の聖霊様(イエス様)が本来の働きをすることができなくなる場合について、注意が促されています。

神の聖霊を悲しませてはいけません。  エペソ 4:30
御霊を消してはいけません。 Ⅰテサロニケ 5:19

3.イエス様に定住していただくには
1)信仰
不信仰、不平不満、不従順はイエス様の内住と働きを阻害します。満たしとは支配していただくということですから、イエス様に対する全き信頼のみが満たしを実現します。たとえ罪や失敗があったとしても、心からの悔い改めによって、罪の赦し(Ⅰヨハネ1:9)と満たしが与えられます。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分に求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 ヘブル 11:6

もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きます。 ローマ8:13

2)愛
イエス様が与えてくださった犠牲的な愛と、その愛を受けてイエス様と兄弟姉妹を愛する愛を信仰の基礎として堅く据えましょう。それが漸進的な聖化の道、イエス様に満たされ、導き続けていただく道となります。
その結果、イエス様と同じ人格が現れるようになり(エペソ3:19,ガラテヤ5:22,23)、さらに、恵みとしてイエス様と同じ苦しみを賜る者になります(ピリピ1:29)。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいますわたしたちの父よ。    マタイ 6:9

私たちは、栄光に満ちた天地の主、創造主、主権者であられる神様を、親しく「お父様」とお呼びすることができる恵みをいただきました。
イエス様は、ご自分のお父様を独占せずに、ご自身が長子となられ、私たちを弟妹として下さいました。イエス様の天の父は、私たちにとってもすばらしいお父様です。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。ローマ 8:29

1.平等なお父様
天のお父様は、全ての人に対して分け隔てのない平等なお方です。

父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 マタイ 5:45

2.良いものを与えてくださるお父様
天のお父様は、最も大切なご自分の愛する御子を私たちに与えるほどに、私たちを愛しておられます。それ以下の良いものを与えることは、たやすいことです。

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。 ルカ 11:13

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 ローマ 8:32

3.訓練され(懲らしめ)るお父様(「懲らしめる」第3版)
愛するとは、聖め整えてイエス様に似た者、ふさわしい者とすることです。溺愛して自己中心的な者にすることではありません。

さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練し(懲らしめ)ましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練し(懲らしめ)ましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練され(懲らしめ)るのです。 ヘブル 12: 9,10

天のお父様は、イエス様の救いによって私たちを子として下さいました(ガラテヤ4:5,6)。神様との関係は、親子としての親しい関係です。
神様は、私たちの天のお父様として、私たちのことを全てご存じなので、私たちは、恐れることなく何でも打ち明けることができます。天のお父様は、肉の父親以上に私たちのことを心配して、最善の道を示し助けて下さいます。
それは、私たちを神様のかたちに再創造する働きです。

トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」  ヨハネ20,28,29

「見たから信じた」とは、「見ていないから信じない」ということです。イエス様は、見ないで信じる者こそが幸いだとおっしゃいました。

1.大切なものがすべて見えるとは限らない
人間に見えているのは、電磁波の内のごく一部の可視光線だけです。ましてや、生活圏外、霊の世界、過去・未来、ほとんどが見えていません。「見えるものしか信じない」ということは、不合理で非現実的です。
聖書は、見えないものこそ大切なものだと教えます。それは、救いであり、永遠の命です。見えないからといって信じることをやめて不信仰に陥ってしまえば、最も大切なものを失ってしまいます。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。Ⅱコリント4:18

私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。ローマ 8:24,25

2.私たちを生かすもの。それは信仰。
間違ったもの、不確かなものをいくら熱心に信じても、真実なものに変化したりはしません。真実な神様、ひとり子をお与えになったほどの愛、歴史的事実の十字架の贖いと復活、これら確かなものを信じる信仰こそが、私たちを罪から救い出し、新しい生き方、永遠の命へと導くものです。

イエスは彼に言われた。「あなたは私を見て信じましたね。でも、見ないで信じるのが信仰です。信じる人は幸いです。」ヨハネ20:29(現代訳)

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 ヘブル11:1

3.永遠の天を目指す生活

目に見えるものだけを求める生き方とは、自分が納得し、自分が利益を得て満足する、自分中心の生き方であり、御利益信仰です。イエス様が幸いだと言われたのは、神様は創造主であり主権者なので、被造物である私たちは、見なくても、見えなくても信仰によってみことばに従うことです。

私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。Ⅱコリント5:7

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。ヘブル11:13

イエス様と同時代に生きてイエス様と触れ合い、奇蹟を目撃し、直接教えを聞いた人たちは幸いでしょう。しかし、イエス様は、見ないで信じている現代の私たちの方が幸福だとおっしゃいました。

そこで、私がまず第一に勧める〈強く訴える〉事は、願いと祈りととりなしと感謝とが、すべての人々のためにささげられ、王たちと権威〈重い責任〉の地位にあるすべての人々とのために〔ささげられる〕ことです。それは、私たちが、あらゆる面において全く信仰深く〈敬けんに〉、また謹厳さをもって、〔外的に〕静かな〈落ち着いた〉、そして、〔内的に〕平和な生活を送るためです。このような〔祈り〕は善い事〈正しい事〉であり、私たちの救い主である神に喜ばれる〈受入れられる〉事です。この〔神は〕、すべての人々が、救われて〔神の〕真理をますます明確に〈正しく〉悟る〈認める〈見分ける〈知る〉ことを、望んでおられるのです。〔その真理とは〕神は〔唯〕一であるということ、そして、神と人との仲立ち人も〔唯〕一、すなわち人間キリスト・イエスである、ということです。この〔キリスト〕はご自身をすべての〔人々の〕ために身のしろ金としてお与えになりました。〔それは〕適切な〔ちょうど良い〕時に証明された〔事実なのです〕。 Ⅰテモテ 2:1~6(詳訳)

現在、世界58箇所(アフリカ、アジア、中南米)で戦争、紛争、内戦、内乱が起こっており、過去一年間に1万人以上が死亡した紛争は4件です。 日本は戦後73年間、平和が続いていますが、未だに領土の不法占拠、領海侵犯、拉致被害、核・ミサイル攻撃の脅威などが続いています。
神様は、国や地方の指導者のためのとりなしの祈りを喜ばれます。

1.すべての人、高い地位にある人々に
パウロはすべての人、特に国民のためひいては世界平和のための重責を担っている国の指導者のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるように強く訴えています。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。・・・・恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。ローマ 13:1~7

2.とりなしの祈りの目的
神様は、愛する私たちが平安で平穏な生活を送る事を願っておられます。隣人と国や地方の指導者へのとりなしの祈りと感謝の心が、敬虔な信仰生活へとつながります。どんな国でも家庭でも内輪もめしていては立ち行きません。クリスチャンは争いを引き起こす者ではなく、平和を作る者です。
1)信仰深い生活 2)平和な生活 3)神様に喜ばれる事

イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。 マタイ 12:25

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、・・・・すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。Ⅰペテロ 2:12~17

3.神様が望まれていること

神様が望まれていることは、国の指導者も含めてすべての人がイエス様によって救われて真理(唯一の神様、唯一の救い主イエス様、イエス様の贖い)を知ることです。そのためには、国の指導者にも、イエス様の福音が伝えられる必要があります。祈り、とりなし、感謝をささげましょう。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。   Ⅰテモテ2:4

神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させて下さったのです。           Ⅰコリント 12:24(第2版)

調和とは「全体がよくつりあって、矛盾や衝突がなく、まとまっていること」です。神様は、人体を調和のとれた完全な、素晴らしいものとして創造されました。同様に、イエス様を土台とし、頭とした教会も調和のとれた完全な、素晴らしいものとして下さいました。
あなたは今、神様が調和させて下さっている調和の中にいますか。

1.民族、地位、立場、性別、貧富、能力の調和
すべてのクリスチャンは、神様の前に平等であり、一つの体です。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。  Ⅰコリント 12:13

2.賜物・奉仕・働きの調和
神様はそれぞれに賜物・奉仕・働きを与えて下さいましたが、貴賤はありません。神様の定めた秩序はありますが、お互いに尊敬し合うことです。

ある人には御霊を通して知恵のことばが、・・・・同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えて下さるのです。 Ⅰコリント 12:9~11

3.調和を保つために大切なこと
1)私はキリストのからだ
あなたは自分自身がイエス様のからだであることを信じ受け入れていますか。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。 ローマ 14: 4

2)私は教会
あなたは、自分自身がこの世での「小さな教会」であることを信じ受け入れていますか。

あなたがたは使徒と預言者の土台の上に立てられており、キリスト・イエスご自身が隅の親石なのです。この〔かた〕にあって建物全体は調和をもって組み合わされ〈結び合わされ、密着させられ〉ており、主にあるきよい宮〈主の御前にささげられた、聖別された、きよい神殿〉へと高められて〈成長して、発展して〉ゆくのです。彼にあって〈また互いの交わりのうちにあって〉あなたがた自身も、他の人々とともに〔この建物となるように〕建てられているのであって、み霊にあって〈よって、を通して〉神の定住される所〈みすまい〉を形造るのです。 エペソ 2:20~22(詳訳)

3)最も大切なことは「愛」
イエス様によってみながひとつになりました。その根底は「私に注がれた十字架の愛と赦し」です。

私は今、はるかにまさる道を示しましょう。たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。Ⅰコリント 12:31~13: 1

この主イエスは、私たちの罪のために、裏切られて殺され、私たちの義認〈無罪放免〉を獲得するため《私たちを神の前においてすべての罪責から赦免することによって私たちの計算書を不足なしにするため》、よみがえらせられたのです。ローマ人への手紙 4:25(詳訳)

1.イエス様の死
天地の造り主・全能者・主権者・裁き主・神であられるイエス様が人となってこの世に来られたこと、33年の生涯を歩まれたこと、人々に裏切られ苦しみを受けられたこと、最後は十字架で死なれたこと、これら全ては私たちの罪のために行われたことでした。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい。それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。  イザヤ 53:5,6

2.イエス様のよみがえり
死んで葬られたイエス様は、私たちの罪を消し去り、私たちの神様に対する罪責・負債・不足をすべて無くして関係を回復させて、恵みを受けられるようにするためによみがえられました。イエス様のよみがえりは、サタン・悪霊・罪に対する勝利です。

いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。コロサイ 2:14

3.父なる神様の主権とイエス様の服従
イエス様は「殺され」「よみがえらせられ」ました。ご自身の意思ではなく、全面的にご自分を捨てて、父なる神様のご計画にすべてを任せられました。父なる神様とイエス様の御思いは、「私たちを罪から救う」この一点に集中していました。ここに神様の愛があります。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。   Ⅰヨハネ4:10
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。  ヨハネ 6:38

4.私の歩みに神様のみこころがなりますように

父なる神様とイエス様の愛は計り知れません。私たちはどれほど愛されていることでしょうか。世界中の者が敵になっても、天地が滅び失せても、神様の愛は変わりません。私たちが自分の利益や満足のためではなく「神様のみこころがなりますように」と祈り求める生き方は、最も幸いです。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。Ⅱコリント 5:15(Ⅰヨハネ2:15~17)

今日のみことばは、十戒の第三戒「主の名をみだりに口にしてはならない」です。
国語的にみだりに【妄りに・濫りに・猥りに】は次のことを意味します。
①  分別なく行うさま。 「~口出しをするな」
②  正当な理由や資格もなく行うさま。 「~立ち入ることを禁ず」

悪のために(自分中心的事柄のために)、偽りのために、むなしいことのために、主の御名をみだりに唱えてはなりません。

主の名をみだりに口にするとは、次の3つの意味があります。

1.偽りの誓い

あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 レビ19:12

2.主を悪く言う

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 ヤコブ 1:13~16

3.言行不一致

きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。  テトス 1:15~2: 1

イエス様はご自身の命、偽りのない愛によって、私たちを救い出して下さいました。今も変わらない愛によって、私たちを導いておられます。イエス様は真実で一途なお方ですから、私たちにも真実な愛を求めておられます。あなたはどのように応答しますか。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。   Ⅰヨハネ 4:19~5: 4