今日は新約聖書の出来事16「弟子たちの足を洗う」です。最後の晩餐の席で、弟子たちは誰が高い地位に就けるのか議論していましたが、イエス様は弟子たちの足を洗い、幸いな生き方を示してくださいました。
1.弟子たちの議論
また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。・・・しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。ルカ 22:24~27
弟子たちは、イエス様から「これから律法学者たちに捕らえられて殺され、よみがえる」と聞いても真剣に考えず、新しい国でイエス様が王になった時に高い地位に就きたいと、自分の立身出世のことしか考えていませんでした。
2.互いに足を洗いなさい
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。・・・あなたがたに模範を示したのです。・・・これらのことがわかっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。ヨハネ 13:14~17
イエス様は、上着を脱ぎたらいに水を入れて、客人の足を洗うという本来奴隷がする仕事を弟子たちに対して行われました。イエス様は、「主のしもべ」としての模範を示され、弟子たちに互いに足を洗い合いなさいと命じられました。このことをよく理解して受け入れ、更に頭の理解だけではなくこれを実行することによって幸福になると教えられました。
3.全身きよい者
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」ヨハネ 13:10
ペテロは、先生・神の子・救い主であるイエス様に自分の汚い足を洗ってもらうのはとんでもないことだと思って辞退しました。そこには、イエス様によって聖めてもらう必要がない、私がイエス様のために命を懸けますとの自負がありました。しかし、イエス様から「わたしが足を洗わなければ、あなたとは無関係だ」と言われて、慌てて「全身を洗ってください」と突拍子もないことを言い出しました。イエス様は、一度罪を悔い改めてバプテスマを受けたのであれば、すでに全身きよくなっているので、汚れた部分だけ悔い改めて聖めてもらうように促されました。
私たちの周りには、私たちを罪に誘惑する様々なものがあります。自分の欲に引かれ、情に流されて妥協し、この程度のことなら問題ないだろうと、少しずつ知らないうちに罪に陥り、イエス様や聖書や教会から遠のいてしまいます。罪に敏感になり日々聖めていただきましょう。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝・・・ねたみ、泥酔、遊興、・・・このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。ガラテヤ 5:19~21(Ⅰコリント 10:19~22)
人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。ヤコブ 1:14,15