「信仰義認」(聖日礼拝メッセージ 2025/10/26)

 10月31日(金)は「宗教改革記念日」です。1517年10月31日、マルチン・ルターが免罪符に反対して、ウィッテンベルグ城教会の扉に95箇条の提題を貼りだしました。ルターは、「①信仰義認②信仰と道徳の基準は聖書③万人祭司④信者各自に聖書を読み、理解する権利と義務あり」と主張しました。「信仰義認」について考えてみましょう。

1.律法の役割
 ・・・律法を通して生じるのは罪の意識です。ローマ 3:20

 ・・・律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。ローマ 7:7

 律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。ガラテヤ 3:24

 聖書は律法主義を非難しますが、律法は良いものだと言っています(Ⅰテモテ 1:8)。ひとつは律法がなければ私たちは罪を知ることができませんでした。もうひとつは、健全な教えに反する行為を示すことにあります。もし、私たちが神様の前にどのような状態にあるのかを知らないまま生きているとすれば、恐ろしいことです。暗闇の崖っぷちを闇雲に進んで行くようなものです。

2.罪と恵みの増加
 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。ローマ 5:20,21

 人は律法に対して反発を強めて罪が増し加わり、その罪は律法に照らされて自分の目にも人の目にも明らかになりました。幸いなことに、自分の罪深さを知り、罪を認めざるを得なくなった私たちは、増大した罪を上回るイエス様の十字架の義と恵みによって、救いと永遠のいのちに導かれました。

3.キリストを信じる信仰
 人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。ガラテヤ 2:16

 私たちは表向き律法を行うことが出来ているかのように錯覚して自己満足に陥ります。しかし、人がいくら立派なことをしたとしても神様の前に義と認められることはできません。行いによって義と認められようとすることは、高慢と人に対する軽蔑とねたみを生むだけです。逆に、信仰義認はへりくだりと感謝と従順をもたらします。しかし、神様に赦されているからと言って、何をしても良いのではありません。イエス様を信じるとはイエス様に従うこと、御霊の実を結ぶことです(ガラテヤ 5:22,23)。

 私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。ピリピ 3:9

タイトルとURLをコピーしました