「奴隷である自由人」(礼拝メッセージ2012/05/06)

 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を 獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
 律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。            Ⅰコリント 9:19~23

 クリスチャンは、イエス様の尊い救いによって罪からの自由を与えられました。真理であるイエス様が自由を与えて下さいましたから、決して誰かの奴隷になることはありません。
 しかし、パウロはすべての人の奴隷になったと告白しています。それは、それぞれの人の立場に立ち、幾人かでも救い、福音の恵みをともに受けるためでした。
 パウロは、具体的にそれぞれの人(ユダヤ人・律法の下にある人・律法を持たない人・弱い人・すべてのもの)のようになりました。
 私たちもイエス様によって、サタン・悪霊・罪・死・人から全く自由になりました。しかし、幾人かでも救うために、あえてすべての人の奴隷となりましょう。すべての人に仕えるとは、

 ①自分の弱さを認めて弱さを明らかにする。
 ②自分が損をする。(犠牲を払う)
 ③自分の心を開く。相手と関わりを持つ。

 これは、そのままイエス様の姿です。イエス様はへりくだって人間となり、私たちの間に住まわれました。私たち一人ひとりに深く関わり、私たち一人ひとりの身代わりとしてご自身の命を捨てて下さいました。
 イエス様に従って隣人の救いを願い、何とかして福音を伝えようとしているあなたは、少しだけイエス様に似ています。

 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。        ローマ15:1~6

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