今日のメッセージテーマは旧約聖書(信仰)7「アブラハムの義」です。アブラハムは「信仰の祖、神のしもべ、神の友」と呼ばれていますが、私たちと同じく様々な失敗や葛藤もありました。アブラハムは行いによって義と認められたのではなく、信仰が義と認められました。
1.アブラハムの信仰
「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。創世記 15:5,6
アブラハムは主のことば(主が盾となってくださる、大きな祝福がある、跡継ぎが与えられる、子孫の繁栄)を単純に信じました。主は引き裂かれたいけにえの動物の間を通り過ぎることを通して、契約のしるしとされました(契約を破れば引き裂かれたいけにえのようになることを示す)。主は、エジプトでの400年間の奴隷、出エジプト、所有する土地について示されました。
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、・・・肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。ガラテヤ 2:16
2.私たちもアブラハムの子
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。ガラテヤ 3:6,7
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものとみなされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。ローマ 4:4,5
旧約聖書と新約聖書で救いの基準が変わったわけではありません。古今東西、人は律法を守って神様の基準に達することはできず、行いによっては救われません。行いを誇る生き方ではなく、救いの恵みに感謝して生きる者がアブラハムの子です。働きがなく不敬虔な者を義と認めてくださるとは、神様の前に自分の義を立てることができない私たちの代わりに、ご自身の義を立て身代わりに十字架にかかってくださったイエス様の救いことです。
3.行いが伴う信仰
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。ヤコブ 2:21~23
アブラハムは、ただ頭で主のことばを信じて何もしなかったり、主のみこころに従わない行動をとったのではありません。自分の信仰に沿って我が子に手をかけようとするほどに主のことばに従いました。彼の生き方、判断基準、行動原理、日常生活は、主を信じる信仰によっていました。
からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。ヤコブ 2:26
