これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。
しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。 レビ記 5: 5~7
旧約時代のイスラエル民族は、罪を犯した時「告白と悔い改めが必要」「血を流すことなしに、罪の赦しはない」ということを教えられていました。主は、彼らに罪を告白させて悔い改めに導かれ、いけにえをささげさせました。いけにえをささげる者は、いけにえに手を置いて自分の身代わりになることを現しました。
いけにえは、経済的な力に応じて「小羊・やぎ」「山鳩・家鳩」「小麦粉」と定められていました。これは主の配慮です。経済的な余裕がないからいけにえをささげずに、罪をうやむやにしていいのではありません。
主の罪に対する厳しさと悔い改めに導いて救おうとする優しさが現れています。
これは、周辺の民族には見られない、罪に対する厳格さです。彼らが、神様の存在と神様のみこころを全人類に示していました。
「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。 民数記 5: 6,7
悔い改めとは、「お詫びすることではなく、生き方を変えることです。」そこには、償いも含まれます。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ヘブル 9:26~28
イエス様が私たちの救い主になって下さいました。
私たちに罪を自覚させて告白に導き、次に、悔い改めに導き、自ら罪を負っていけにえとなって下さいました。旧約時代の人も新約時代の人もすべての人は、イエス様の十字架の死と復活によって罪を赦していただいて救われることができます。動物の血は私たちの罪を完全にきよめることはできません。イエス様の罪のない血が流されることで私たちの罪は赦されます。へりくだって、イエス様の救いを受け入れましょう。