今日は新約聖書の出来事10「だれが一番偉いのか」です。弟子たちは、イエス様に「天の御国では誰が一番偉いのですか。」と尋ねました。弟子たちの間では、だれが高い地位に就けるのかと話題になっていたので、みな自分の名が上がるのではないかと期待して質問しました。イエス様は子どものように自らを低くする人が一番偉いとおっしゃいました。
1.天の御国で一番偉い人
「真実に、私はあなたたちに言う、もしあなたたちが、悔い改めて〈変化して、方向を変えて〉幼子たちのように〔信頼の心を持ち、謙そんで、愛の心を持ち、赦す心を持つ者に〕ならなければ、天の国には決して入れない。だから、だれでも自分を低くして、この幼子のように〔信頼の心を持ち、謙そんで、愛の心を持ち、赦す心を持つ者と〕なる者こそが天の国でいちばん偉いのである。マタイ 18:3,4(詳訳)
偉いとは「普通よりも優れている。社会的地位や身分などが高い。人間として、立派で優れている。」ことを言います。弟子たちは天国でだれが一番地位が高いのですかと聞いたかもしれません。しかし、イエス様は地位よりも謙遜で人を赦す心を持つ者が一番偉いと言われました。
2.小さい者を受け入れる人
またこのような幼子のひとりを私のために〈また私の名によって〉受ける〈受け入れる〈歓迎する〉者は、私を受け〈受け入れ〈歓迎し〉ているのである。けれども私を信ずる〈認める〈私によりすがる〉この幼い者のひとりをつまずかせ、罪を犯させる〔すなわち、彼をいざない、または彼が正しく行うこと、または考えることを妨げる〕者は、大きな石うすをその首に縛りつけられて海の底に沈められるほうがもっと良い〈もっと得策である、益である、有利である〉。マタイ 18:5,6(詳訳)
イエス様を目の前にして、イエス様を信じて受け入れることはある意味たやすいかもしれません。しかし、目の前にはイエス様の姿は見えずひとりの幼子しかいない状態で、その子をイエス様に愛されている者として受け入れることが、イエス様を受け入れることだと教えられました。謙遜でへりくだらなければできないことです。
3.高ぶる者に敵対する神様
・・・みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、
へりくだった者には恵みを与えられる」Ⅰペテロ 5:5
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。ピリピ 2:6~8
神様は、高ぶる者(高い地位を求める者、高い地位を求めないと言いつつ自我を通す者)を受け入れないどころか、対立する敵として扱われます。逆に、へりくだる者には恵みが与えられるので、皆が謙遜を身に着けるように命じられています。私たちが見習うべきは、最もへりくだられた救い主イエス様です。