「イエス様にあって自慢する」(礼拝メッセージ2016/02/21)

私たちは、いろいろな「もの」や「こと」を自慢したり、逆に、「自分がふがいない」と落ち込んだりします。また、周りの人を「ダメなやつだ」とさげすんだり、「あいつだけなぜ」と羨ましがったりします。しかし、それはとても不安定で不幸な考え方です。聖書は、建設的で自分も周りも幸福にするすばらしい信仰のことばを教えてくれます。

しかし、あなたがたがイエス・キリストの中に自分のいのちを持っているのは、神から出たことなのです。神はこのかたを神から私たちに〔与えられた〕知恵とされ〔すなわち、神は、以前隠されていたご自身の救いのご計画、についての知識を私たちに掲示され、その知恵は現われて〕私たちの義となり〈こうして私たちを正しくし、神のみ前での正しい身分に立たせ〉、私たちのきよめ〔とし〕〈私たちをきよくし、聖なるものとし〉私たちの贖い〔とされた〕〈私たちが罪のために受ける永遠の刑罰からのがれるために、私たちのための身のしろ金を用意された〉のです。それは、「自慢する〈得意になって喜ぶ〉〈誇る〉者は、主にあって自慢しなさい〈得意になって喜びなさい〉〈誇りなさい〉」と書いてあるとおりです。 Ⅰコリント1:30,31(詳訳)

というのは、あなたがたがキリスト・イエスによっていのちを確保できたのは、ひとえに神様のおかげだからです。キリスト様は、神様の救いの計画を明らかにしてくださいました。私たちを神様に受け入れられる者としてくださったのは、このキリスト様でした。この方は、私たちを、きよく聖なる者とし、また、私たちの救いを買い取るためにご自身を投げ出されたのです。旧約聖書の、「だれでも誇ろうとする者は、主のなさったことだけを誇れ」という、ことばどおりになるためです。 Ⅰコリント1:30,31(LB訳)

みことばによると、私たちに自分自身を自慢したり、落ち込んだりする要素が、何一つないことがわかります。

1)救いをいただけたのは、神様のおかげ。
2)イエス様が救いのご計画を教えて下さった。
3)イエス様が私たちの救いのために犠牲となって下さった。
救い:義認、正しい身分、きよめ、聖なるもの、神の子、永遠の刑罰からの救い
犠牲:贖い、身のしろ金用意、ご自身を投げ出された

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。  エペソ 2: 8,9

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 ヨハネ15:16

イエス様がご自身を投げ出して救いを完成し、神様が私たちを選んで救いを与えて下さいました。

主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―       エレミヤ 9:23,24

人はだれでも、神様の御前で誇ることはできません。しかし、人はだれでも、イエス様にあって誇り自慢することができます。また、イエス様にあってでしか自慢できません。
神様のあわれみとイエス様の尊い犠牲を感謝して喜び自慢するなら、神様をたたえていることになります。「こんな自分が恵みを受けて救われた」と自分を喜ぶことができます。「あの人もこの人も神様に愛されて救われたんだ」と喜ぶことができます。「あの人もこの人もイエス様を信じて救われてほしい」と心から願うことができます。
「愚かで弱く、取るに足りない、見下されている、無に等しい、どうしようもない私だから救われたんだ」と落ち込まずに喜ぶことができます。
イエス様に日々、感謝して喜んで生きることができる人生とは、なんとすばらしい人生でしょう。
人生にどんな嵐が吹き荒れても、このみことばに立ち返りましょう。

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