兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉(利己心のための※詳訳)の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 ガラテヤ 5:13
1.与えられた自由
1)何からの自由なのか
私たちは自由を与えられるために救われました。以前は何に束縛され、何の奴隷になっていたのでしょうか。罪・お金・欲望・憎しみ・悪意・自己中心・周りの評判・善行・自己満足・自分の理想などです(ローマ1:29~31)。それらの束縛からイエス様は解放して下さいました。
2)ガラテヤ教会の場合
ガラテヤの兄弟姉妹は、忍び込んできたニセ教師、ユダヤ主義者たちによって惑わされ、イエス様が与えて下さった信仰による義を否定し、行ないによる義、ユダヤ教の儀式やおきての奴隷となってしまいました。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。 ガラテヤ 5: 1
2.自由の乱用-肉に従う歩み-
しかし、与えられた自由を間違って信じてしまい、逆に救われる前の生活に戻ってしまうという問題が発生しました。恵みが注がれており、自由が与えられているなら、肉に従っても良いという考えです。
それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪に留まるべきでしょうか。ローマ 6: 1
3.御霊による歩み
主から与えられた自由は、内住される聖霊様に従い導かれることによってのみ正しく用いられます。御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、どれも肉の考えによる自由とは相容れないものがあります。「主の奴隷となる。愛をもって兄弟姉妹が互いに仕え合う。主の弟子として訓練を受ける。人々の救いのために犠牲を払う。」これらも自由とは真逆の歩みです。
しかし、「真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)」と言われたイエス様が与えて下さっている自由です。なぜなら、真理=イエス様ですから、イエス様の奴隷となることが、すべての束縛から解放された本当の自由な歩みです。
主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント 3:17,18
自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべ(神の奴隷※第2版)として従いなさい。Ⅰペテロ 2:16