多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。へブル 12:1
「信仰の章」へブル11章には、旧約聖書の信仰の勇者が取り上げられ、彼らが今、私たち取り巻きいて声援を送っているので、兄弟愛を持ち、信仰を全うするように勧められています。
1.信仰とは(ユダヤ的表現―同義的並行法):へブル11章1節
信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。へブル 11:1
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 へブル 11:6
2.信仰の殿堂入りした者―遊女ラハブの信仰とは
へブル書でいう神様に喜ばれる信仰者とは、「神に近づく者」「神を求める者」であり、それが11章にあげられた称賛されるべき信仰者、アベル、エノク・・・ら17人、女性2人はサラとラハブです。ラハブの信仰は、ヨシュア記2章、6章に記されています。
信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。へブル 11:31
①危険をも顧みず斥候をかくまったラハブの大胆な信仰
②まことの神に対するラハブの信仰
あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。ヨシュア 2:11
③自分の家族を大切にするラハブの信仰
④イエス・キリストにつながる系図
*「穏やかに」とは「ねんごろにおもてなしをした。敵意を持たないで」と訳されます。実際は命をかけるほどのスリルに満ちた大胆なもので、「かくまった」とは、神の側についたことを意味します。
3.兄弟愛を「いつも」持っていなさい
へブル人への手紙は、迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに対して、なぜキリストの恵みにとどまり、信仰のマラソンを最後まで走り続けなければならないかについて述べてきました。神様の御国に入る約束が与えられ、その特権に与ったクリスチャンは、最後までそれにふさわしく「兄弟愛をいつも持つ」生き方をすべきだと手紙は結んでいます。
「いつも」とは、調子が良い時だけでなく、相手が裏切った時でさえ「さらに熱心に、冷めることもなく」という意味です。
まとめ
ラハブの信仰は危険をも顧みず自分の命をかけた信仰です。しかし、その信仰は、自分の力で頑張るような信仰ではありません。神様がどのようなお方であるかを知っているからこそ、その神様に委ねることができた信仰のことです。「おことばどうりにしましょう」(ヨシュア2:21)は、どのような身分、立場であっても主に従う者の信仰の言葉です。 (藤島昇兄)
ラハブの信仰は危険をも顧みず自分の命をかけた信仰です。しかし、その信仰は、自分の力で頑張るような信仰ではありません。神様がどのようなお方であるかを知っているからこそ、その神様に委ねることができた信仰のことです。「おことばどうりにしましょう」(ヨシュア2:21)は、どのような身分、立場であっても主に従う者の信仰の言葉です。 (藤島昇兄)