ヨハネの黙示録の「黙示録」は、原文では「現わす」です。隠されていたものの覆いを取って真相を明らかにすることを意味し、「啓示」「明示」「天啓」「公開」と同義です。ヨハネは啓示による数々の悲惨な出来事に心乱されることなく、イエス様に命じられたとおりに実際見たものと示された言葉を書き留めました。さらに、老齢のヨハネは、キリストの再臨によってもたらされるこの世の終わりと救いの究極的完成を最も確かな出来事として信じ、晩年を生き抜きました。この教えは、私たちの困難な人生の中に一条の光を与え、生きる力となります。
1.黙示録の概観―終末における4つの説(資料1参照)
①患難前携挙説 ②患難中携挙説 ③患難後携挙説 ④無千年王国説
キリスト教会にはこの4つの説があります。しかし、大切なのは「主イエス様が、私の罪のために十字架にかかって死なれ、復活され、昇天され、終わりの日に再臨される」という信仰を持ち続けることです。
2.ヨハネが見た新しい天と地とは
旧約聖書イザヤ書65:17、66:22は、同じメシア王国(千年王国)に関するものですが、黙示録では「新しいエルサレムを見た」とあります。私たちが最終的に住むところは、「新しいエルサレム」です。
聖書の「新しさ」には、単に時間的な新しさを意味する「ネオス」と、もうひとつの「カイノス」がありますが、ここでは後者の意味で使われています。すなわち「古きもの」との関連において、質的に「全く新しい」という意味であり、年月を経ても「新しい」ことには変わりがないことを強調する語彙です。従って「新しい天と新しい地」とは、古いものが変化し新しくなったということではなく、全く新しく創造されたものであることを意味します。以前のもが刷新されます。(資料2)
3.「わたしはすぐに来る」希望を与えることば
ヨハネの黙示録には、「わたしはすぐに来る」という表現が4回あります。
(1)「わたしはすぐに来る。」 (黙示録 3:11)
(2)「見よ、わたしはすぐに来る。」 (黙示録22: 7)
(3)「見よ、わたしはすぐに来る。」 (黙示録22:12)
(4) 「しかり、わたしはすぐに来る。」 (黙示録22:20)
「わたしはすぐに来る」という表現はヨハネ独特の表現です。「すぐに」とは、本来、予め定められた時に、遅れることなく来るという意味です。しかし、人は「すぐに」とは「いつなのか?」と疑います。人にとって「千年が一日」という感覚はありませんが、聖書には、主にあっては「千年は一日のようである」とあります。
ここでの「すぐに」ということばは、私たちが考える「早急に」という意味ではなく、むしろ、「突然に」「予期しない時に」「思いがけない時に」という意味に理解したほうが良いでしょう。
重要なことは「わたし(イエス様)が来る」という事実、つまり、偽りのないイエス様が再臨されるという確かな事実です。イエス様が再臨されることで、以前の罪、汚れ、恐怖、悲しみ、苦しみがなくなり、すべてが清められ、すべてが全く新しい喜びに変えられます。(資料3 まとめ) (藤島 昇 兄)