私たち人間は、自分の義と行いによって神様の要求に応えて基準をクリアできるので、神様は私たちを受け入れる義務があると考えます。しかし、それは自分たちの理屈でしかありません。私たちは、いくら努力をしても根本的に神様の義と聖の基準に達することはできません。
1.人間の傲慢
民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。 出エジプト 19:8,24:3
私たち人間は、実に傲慢なものです。モーセに率いられ、多くの奇跡と神様の臨在を体験し、モーセを通して与えられた主の戒めと命令をすべて行いますと大見得を切っていても、あっさりと神様を捨てて偶像を自分たちの神々として祝い戯れました。人の行いはあてになりません。
「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。」・・・それを鋳物の子牛にした。・・・「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」 出エジプト 32:1~6
2.恵みによる救い
あなたがたが、〔その〕信仰を通して救われている〈審判から救い出されている〈キリストの救いにあずかる者とされている〉のは、無代価の恵み〈功績によらない愛顧〉によるからです。この〔救い〕はあなたがた自身から出たもの〈あなたがた自身の働きから出たもの〈あなたがた自身の努力を通して生じたもの〉ではなく、神の賜物です。行いなによるのではありません。〈律法の命ずるところを果たすことによるのではありません〉。だれも誇ることのないためです。〈それは人にできるようなことの結果ではないので、だれもその事で自分を誇ったり、自分に栄を帰したりすることはできないのです〉。 エペソ 2:8,9(詳訳)(ガラテヤ 2:16)
救いが行いによるものであれば、私たちは鼻高々に自慢して、自分に栄光を帰し、神様と隣人を蔑むでしょう。
イエス様は父からぶどう園で働くよう頼まれた兄弟(マタイ21:28~32)のたとえ話により、人は、悔い改めと信仰と恵みによって救われることを教えています。祭司長たちは自分の行いを振りかざし、遊女たちは自分に誇れる行いがないことを認めていました。(ローマ 3:23,24,28)
3.恵みと行い
私たちは神〈ご自身〉の作品〈工作品〉であり、キリスト・イエスにあって再創造されたものです。〔その新しく生まれたことは〕神が私たちのために予定された〈あらかじめ計画された〉善い行ないを行ない〈私たちが、神が前もって備えてくださった道をたどりながら〉その中を歩む《神が私たちの生活のためにあらかじめ整え、準備してくださった良い生活を送る》ためです。 エペソ 2:10(詳訳)
私たちは行いではなく、恵みによって救われましたが、良い行いに意味がないわけではありません。私たちは、良い生活、神様の備えてくださった良い道を歩むために、イエス様にあって再創造された良い作品です。罪と悪の道から解放され、自由になった者たちです。感謝しましょう。