今年度は福音書からイエス様の行い、教え、奇跡を中心に学びます。今日は「荒野での試み」です。イエス様は神の子、メシアなのになぜ悪魔の試みにあわれたのでしょうか。私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。
1.荒野での試み
それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。マタイ 4:1,2
イエス様は聖霊様に導かれて(追いやられて マルコ1:12)荒野での40日間の断食後、肉体的にも精神的にも極限の状態にある時に、悪魔の試みを受けられました。荒野では野の獣がおり、御使いが仕えていました(マルコ 1:13)。
2.イエス様の対応
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 マタイ 4:4
イエス様は神としての絶対的な力によって悪魔を叩きのめしたわけでも、圧倒的な奇蹟の力によって問題を解決したわけでもありません。ただ父なる神様を信頼し、申命記のみことば(申命記 8:3,6:16,6:13,10:20)を引用して悪魔を退散させました。
3.自分か十字架か
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」 マタイ 26:39(マタイ 26:42)
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。ヨハネ6:38
イエス様は持っておられる力を自分のために使って、空腹を満たし、神様を試し、この世の栄華を手に入れることができたでしょう。しかし、イエス様が一番大事にしていたのは、自分のことよりも父なる神様のみこころであり、私たち一人ひとりの罪からの救いでした。イエス様は自分を犠牲にして私たちを生かしてくださいました。
4.私たちの苦しみを知るイエス様
・・・信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。・・・恵みの御座に近づこうではありませんか。へブル 4:14~16(イザヤ53章)
イエス様はすでに私たちと同じ経験、それ以上の経験(飢えや苦しみ、仲間はずれ、いじめ、誤解、悪意、暴力、友だちの裏切り、家族の無理解、冤罪、不正な裁判など)をされました。私たちの苦しみを理解しておられるイエス様にすべてを打ち明けて頼り、助けをいただきましょう。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。へブル 2:18