「あわれみを求める」(礼拝メッセージ 2023/12/31)

 今日は新約聖書の教え14「祈りについての教え2」です。イエス様は人が義と認められる祈りについて教えてくださいました。同じ場所にやって来て祈った二人でしたが、一人は義と認められ、もう一人は認められませんでした。どこに違いがあったのでしょうか。

1.パリサイ人
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。ルカ 16:15

 パリサイ人は、宗教儀礼を忠実に行っており、不正をしていないので、自分の行いや正しさや考え方に自信を持ち、取税人を見下していました。 神様の審判を自分の力で乗り切れると思い、神様のあわれみやイエス様の力など必要ないと考えていました。彼の感謝は神様の恵みに対してではなく、取税人の罪や劣等性に対する優位性に対してでした。人間の基準ではすばらしいと思われていても、神様の基準では正反対のものになります。

2.取税人
 神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みに従って。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。私の咎を 私からすっかり洗い去り 私の罪から 私をきよめてください。詩篇 51:1,2

 自分の罪を自覚し、自分の力では解決できないことを悟り、イエス様にすがるほかないと必死に神様に求める人は幸いです。取税人は神様のあわれみが罪を赦し、イエス様の身代わりの死と復活が唯一の救いだと信じて救いをいただきました。パリサイ人は周囲の目を意識していましたが、取税人は自分の心と神様しか意識していませんでした。ここに二人の祈りの違いが明確に現れていました。

 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」ヨハネ 13:8

3.義と認められ、高くされた人
 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。ガラテヤ 2:16

 自分がクリスチャンだからといって、未信者を見下し、自分が立派な者(礼拝、伝道、献金、お祈りをしっかりやっている)であるかのように思い違いをしてはいけません。「自分には何もありません。すべて神様のおかげ、ただイエス様の贖いとあわれみ、恵みによります。」と告白する者は幸いです。
 この一年間の主の恵みとあわれみに感謝しましょう。

 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。ヤコブ 4:10

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