今日は新約聖書のたとえ3「ぶどう園の労働者のたとえ」です。イエス様は、天の御国をぶどう園の主人にたとえました。ぶどう園の主人は、朝早くから一日働いた労働者と終業時間間近に雇われて一時間しか働かなかった労働者に同じ報酬を支払いました。天の御国(神様)の恩寵と寛容さを示しています。
1.ぶどう園の労働者
彼らはそれを受け取ると、主人に不満を漏らした。『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』マタイ 20:11,12
ぶどう園は、雨期を目前にして猫の手も借りたいほど忙しい収穫期でした。ぶどう園の主人は早朝から何度も市場に出かけて行って労働者を搔き集めました。主人は彼らに契約通りの賃金1デナリを払いました。それに対して、一日中働いた労働者は不平を言いましたが、主人は「不当なことはしていない。自分の思い通りに支払ったまでだ。」と言いました。
2.人の価値観
そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるのでしょうか。」マタイ 19:27
私たちは、宗教的・社会的に地位の高い人、財産やお金がある人はすばらしく、貧しくて地位の低い人・犯罪者は卑しいと思ってしまいます。特に、キリスト教界で著名な人や大きな働きをした人を賞賛します。また、自分がこんなに良い働きをしたのだから当然良い報酬をもらう権利があると、自分の行いを誇って報酬を要求しますが、それは自己満足と優越感、人へのさげすみです。
救いと恵みを与えてくださるのは、主権者であられる神様です。
3.神様の基準と恩寵
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。ルカ 16:22
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、・・・もう一人が彼をたしなめて言った。・・・「イエス様。・・・私を思い出してください。」・・・イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ 23:39~43
イエス様は、貧乏人ラザロと十字架上の犯罪人を天国に導かれました。地上でさげすまれていた人でも天においては高い地位が用意されています。 罪からの救いは、人の行いではなく神様の恩寵です。信仰の歩みとは、報酬を期待した打算ではなく、主の恵みに自らを委ね、主のあわれみに日々感謝して過ごすことです。
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。コロサイ 2:6,7