しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。Ⅰコリント 8: 1~3
しかし、〔単なる〕知識は人を誇らせ<みずからを偉いと思わせ)ます。しかし、愛〔すなわち〕愛情<善意<慈愛>は人の徳を高める<人を育成する<人を励まして〔十分な身のたけにまで〕成長させる>のです。
もしだれでも〔愛を持たないで、神のことについて〕自分は多く知る(理解する)ようになったと思う人があれば、その人はまだ、自分が当然知らなければならないようには<必ずそうでなければならないようには>よく<はっきりと>知っていない<認識していない<理解していない>深く知るに至っていない>のです。
しかし、もし人が<愛情のこもった尊敬と、快く即座に従う服従と主の恵みに対する心からの感謝とをもって>主を本当に愛するならば、その人は主に知られている〔すなわち、主との交わりと愛を受けるにふさわしい者として認められ、主はその人を自分のものといわれる〕のです。 Ⅰコリント 8: 1~3(詳訳聖書)
神様・イエス様・聖霊様、聖書、救いについてなどを正しく理解し、正しく認識することはとても大切なことです。しかし、ここでは、単なる知識(神様と人への愛の伴わない知識)は人を高慢にするだけだと言っています。そういう人は、本当に知らなければならない一番大事なことを見落としています。
一番大事なこと、それは神様を愛することです。神様を本当に愛するとは次のことです。(3節)
①イエス様に対する愛情のこもった尊敬
②イエス様に快く即座に従う服従
③イエス様の恵みに対する心からの感謝
あなたは神様を本当に愛していますか。礼拝の時に心からの感謝と尊敬と服従をささげていますか。
主イエス様を本当に愛する者だけが、主との交わりと愛を受けるにふさわしい者、主のものとして認められます。
主イエス様を愛するとは、兄弟姉妹を愛することであり、主にある小さき者を受け入れることです。(マタイ25:34~46)