私たちは、苦しみはすべて避けて、喜びと平安と満足することだけを求めやすいものです。苦しみはすべて悪であり平穏だけが善と考え、ご利益だけを追求する信仰になりがちです。
しかし、苦しみと悲しみの中から喜びがわいてきます。
・イエス様でさえ苦しみを通られました。
イエス様は神様でありながら人間となられ、私たちのすべての罪を背負って苦しまれました。十字架の向こうに見える私たちの救いを希望として、甘んじて苦しみを体験した下さいました。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 マタイ 26:38
・パウロ兄弟も苦しみの連続でした。
パウロ兄弟は、異邦人の使徒としてあらゆる苦しみを受けました。しかし、その苦しみの中に神様の助けと慰めとを体験したので、苦しみや悲しみの中にある人に対して「イエス様がいらっしゃいますから大丈夫ですよ」と言うことができました。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。 Ⅱコリント 1: 4,5
・先輩の兄弟姉妹たちも試練に会いました。
マケドニヤにいた私たちの先輩の兄弟姉妹は、極度の困難の中にありましたが、母教会の兄弟姉妹のために募金をして交わりの恵みに与りたいと強く願いました。
苦しみの中でも自分自身をささげて兄弟姉妹に仕えようとしました。
さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 Ⅱコリント 8: 1~4
私たちもどんな境遇にあっても満ち足りることを学びましょう。そうすれば、いつも、主の平安に満たされます。その困難な状況の中で神様の素晴らしさ、イエス様の救いの素晴らしさ、自分の罪深さ、兄弟姉妹の素晴らしさ、家族の素晴らしさなどの霊的な真理に目が開かれていきます。
苦しみに遭遇して、神様に不平不満を言ったり、不信仰に陥らずに、感謝してそこから恵みをくみ取りましょう。
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 ピリピ 4:11~13