「私たちの背きのため」(聖日礼拝メッセージ 2025/04/13)

 今週は受難週、今日は棕櫚の主日です。私たちを罪から救うのために苦難を受けてくださったイエス様に思いをはせましょう。預言者イザヤは、
700年以上前にメシアなるイエス様を仰ぎ見て、メシアに関する預言を記しました。イザヤ書には4つの「しもべの歌」が記されており、そのしもべは私たちの救い主イエス様です。
 第1 イザヤ42:1~4,7  寄り添う解放者 ⇒ マタイ12:18~21
 第2 イザヤ49:1~6    世界の救い主  ⇒ ルカ  2:32
 第3 イザヤ50:4~11   苦難を受ける主 ⇒ マタイ27:26,30,26:39,67
 第4 イザヤ52:13~53:12 私たちの咎を負う主⇒ ルカ18:31~33,ヨハネ12:38,マタイ8:17

1.蔑(さげす)まれたしもべ
 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。・・・ マタイ27:41,42

 当時も現代の人たちも「メシア、救い主」といえば、力強くて栄光に満ちた華麗で偉大な方を想像しますが、真の救い主イエス様は、しもべとして来られ、しもべとしての生涯を歩まれました(ピリピ 2:6~8)。そこには私たちが賞賛し見とれるような姿はなく、逆に上から目線で軽蔑され、バカにされ、疎まれるしもべの姿でした。

2.主のみこころ
 しかし、彼を砕いて病を負わせることは 主のみこころであった。・・主のみこころは彼によって成し遂げられる。イザヤ 53:10

 イエス様がしもべとして歩まれ、私たちの身代わりとして十字架上で無残な最期を遂げられることは、父なる神様のみこころでした。このことはだれも想像することのできない不思議な出来事でした(イザヤ 53:8)。
 イエス様はその父なる神様のみこころを良く知っておられ、そのみこころを行うことを最上の喜びとされていました(ヨハネ 6:38,4:34)。父なる神様が愛する独り子イエス様を犠牲にしてまで救おうとされたのは、あなたであり私です。心から感謝いたします。

3.打ち傷のゆえに、癒された
 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。Ⅰペテロ 2:24

 旧約時代、動物が屠(ほふ)られて祭壇にささげられ、そのいけにえによってささげた人に罪の赦しが与えられたように、罪のないイエス様がむち打たれ、十字架に磔(はりつけ)になって死なれたことによって、信じるは私たちは癒し、罪の赦しをいただきました。私たちは罪ゆえに霊的に死んでいた存在でしたが、罪の赦しと新しい命をいただいて、新しく生きる者になりました。私たちの心は空っぽになっていましたが、イエス様の無限の愛によって心が愛で満たされました。

 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。詩篇 22:1

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