見ばえのないイエス様(受難週礼拝メッセージ2012/04/01)

 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。   イザヤ 53: 2,3

 イエス様ほどへりくだった方はいません。私たちの知性と想像を遥かに超えています。創造主である絶対的な神様が、絶大な権力と正義を持ってこの地球を裁きに来るのであれば、まだ想像し易いでしょう。しかし、イエス様はあえて人間にさげすまれて殺される道を選んで下さいました。

 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」                        詩篇 22: 6~8(マタイ27:41~44)

 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。                      イザヤ 53:10

 しかし、イエス様がここまでボロボロになることは、父なる神様のみこころでした。私たちに我が子を敵の手に渡してボロボロにする勇気があるでしょうか。
 父なる神様は、誰のためでもない、あなたのため、私のために、我が子イエス様を死に渡されたのです。

 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。  ルカ 18:32,33

 イエス様は、何を求め、何を目標に生きていたのでしょうか。
 それは、父なる神様のご計画を遂行することです。
 そのご計画とは、あなたとわたしがこの地上で罪から解放されて人生を全うし、死後、永遠の地獄に落ちないで永遠の天国に導くことでした。
 それほどに、あなたもわたしも父なる神様に愛され、救い主イエス様に愛されています。
 心から神様に感謝のお祈りをしましょう。

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。                ヘブル 4:15

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