雅歌は、「Song of Solomon」と言われ、ソロモン王とシュラムの婦人との愛の叙情詩です。男女の愛の熱情と喜びに満ちあふれています。雅歌については、昔から多くの解釈がなされています。
・イスラエルに対する神の愛
・花嫁である教会に対するキリストの愛
などとも解されますが、人間の愛の美しさと不思議さをたたえ、肉体的魅力に対する率直でおおっぴらな歓喜が現されている。
私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。
わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。
私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。 雅歌 2: 1~4
神様は人間を無味乾燥で律儀な人形として造ったのではなく、肉体的な愛をも享楽するようにすばらしく造られたことがわかります。罪の誘惑が多い分野でもありますが、主のみこころに沿って用いるならば、主の祝福に満ちた喜びが与えられます。
「花嫁である教会に対するキリストの愛」という側面からを見ていくと、教会(私たち)とイエス様の生き生きとした情熱的な愛の関係がわかってきます。
愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。 雅歌 8: 6,7
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ 5: 8
イエス様は最後の晩餐の時に、「その愛を残すところなく」示されました(ヨハネ13:1~)。それは、自ら手ぬぐいとたらいを用意して、弟子たちの足を洗うことでした。
私たちのイエス様に対する愛も情熱的、献身的であるよう求めていきましょう。