苫小牧の老舗菓子店「三星」が苫小牧へ進出して100年を迎えました。小林慶義が1898年に小樽で長男幸蔵と共に「小林三星堂」を開店し、その後苫小牧に進出しました(小林慶義の弟末松の次男が小説「蟹工船」の作家、小林多喜二)。「三星」は幸蔵が信仰していたキリスト教の牧師が「信仰、希望、愛」を表す三つの星の意味を込めて名付けました。三代目の小林正俊は、この社名の由来を「仕事に惚れ、郷土に惚れ、女房に惚れる」という”三つ惚れマーク”と解釈したそうです。
ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。 イザヤ 64: 5~7
人本主義(ヒューマニズム)は、とても良い思想のように見えるので多くに人から支持されています。それは、教会の中でも例外ではありません。しかし、聖書は人間の原罪と罪深さを指摘し、人間中心主義の脆さ、恐ろしさを告げます。創造者であり裁き主である神様に、被創造物である人間が服従するのはふさわしいことです。
でも、イザヤの時代も今の時代も、神様がいくら忠告と懲らしめを与えても、心を変えて服従しようとする者はありません。あくまでも自己中心を貫きます。
しかし、哀れみの神は、人が次のみことばのように悔い改めてイエス様に服従するなら、主は迎え入れてくださいます
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 イザヤ 64: 8
あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。 イザヤ 64: 5
人間中心ではなく、イエス様を中心にする時に、人も社会も主によって変えられていきます。
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。 使徒 10:35