ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。 エレミヤ 9: 1
もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。 エレミヤ 13:17
エレミヤは「悲しみの人」です。神の民イスラエルが、神様の恵みや祝福を捨てて逆らい、自ら滅びを招いていたからです。再三の預言のことばにも耳を貸さない民に、悲惨な結果が間近に迫って来ていることをエレミヤは見ていました。
エレミヤは民の運命を自らのこととして受け止めました。
○イエス様も悲しみの人でした。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 イザヤ 53: 3
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。 ルカ 19:41,42
○パウロ兄弟も悲しみの人でした。
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 ローマ 9: 2,3
私たちに悲しみや苦しみがあるでしょうか。家族や隣人や同胞に対してエレミヤやイエス様やパウロ兄弟のような切実な思いがあるでしょうか。
イエス様と同じような思いを持ちたいものです。それは、イエス様の視点・聖書の視点から全てを見ることです。
家族の健康と平安と祝福を祈り求めることは大切なことですが、最も大切なことはイエス様を信じて神様に立ち返ることです。それは、悲しみや苦境を通ってでも得てほしいものです。 イエス様に到る苦しみは何にも増して幸いです。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 詩篇 119:71