「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」
まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。 エレミヤ 32:37~42
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 申命記 6: 5
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 マルコ 12:30
「心を尽くして・・・・」という言葉は、聖書の中に49回出てきます。その内48回は人間が神様に対して「心を尽くす・・・」という使い方です。しかし、ただ一度だけ「エレミヤ書32:41」に神様が人間に対して働きかける時の思いとして記されています。
人間が創造者・統治者・審判者・救済者であり、愛と憐れみに満ちた神様に対して「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛する」ことは、至極当然のことです。返って、心を尽くして愛さなければ災いに遭い、裁かれても当たり前です。
しかし、私たちの主は、エレミヤを通してイスラエルの回復の預言を与えて下さったように、私たちの幸いのために全力でことを行って下さる方です。
それは、イエス様の十字架の死であり、復活、聖霊様の賦与、祝福の約束のみことばです。私たちの目には見えませんが、主は、今も変わりなく全力であなたを取り扱っておられます。