「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。
彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。 エレミヤ 26: 2,3
BC609年、神様はエレミヤに命じられました。神様を礼拝するために来た人たちに、罪の悔い改めとエルサレムの崩壊を告げるように。エルサレムの人々は、神様に罪を犯し続けながら、神の都エルサレムは絶対に守られると言う変な信仰を持っていました。エレミヤは、神様から命じられたとおりに、預言の言葉を残らず語りました。それは、命がけの行為でした。預言を聞いた祭司、預言者、民はこぞってエレミヤを捕らえ、殺そうとしたのです。
私たちは人の顔色を伺って、みことばを水増ししたり、省いたりして伝えてはなりません。(申命記4:2、黙示録22:18,19) エレミヤは捕らえられて殺されそうになりましたが、エレミヤを助ける人たちもいたのです。(エレミヤ26:16~24)
エレミヤは、主の宮に礼拝に来た人たちに語りました。私たちクリスチャンこそ、主のみことばを一言も省くことなく聞いて受け留める従順な者です。裁きが神の家から始まるからです。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。 Ⅰペテロ4:17
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ 22:31,32
私たちは、みことばを自分に都合良く省いていないか、常にふるいにかけられ、試みられています。従順な人は、預言のことばを受け入れて悔い改め、エレミヤを助ける人になりました。
しかし、悔い改めない人たちは、自分に都合の悪いみことばに耳をふさいで、信仰の人を無き者にしようとしたのです。
終わりの時代には、愛が見られない世の中になると言われますが、教会も例外ではありません。イエス様を礼拝すること、信仰のこと、イエス様の救いを伝えること、兄弟姉妹を愛して仕えることなど、自分に都合の悪いみことばに耳をふさぎ、自分の好きなことを好きな時にやり、自分の平安のために努力する、イエス様の愛が見られない時代がやって来ています。