「人に厳しく、自分に甘く」(礼拝メッセージ2013/01/20)

 罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。
 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。        エゼキエル18:20~23

 イスラエルでは、「親の罪によって子が罰せられる」と言われていた。しかし、神様は、「各個人が神様の前に責任がある」と告げる。
 また、イスラエルの民は、「主の態度は公正でない」と言っているが、主は、「罪があったとしても心から悔い改めて、主のおきてと戒めを守って悪から遠ざかる者を赦す」と言われる。これは、主が不正を行っているのではなく、哀れみによって受け入れてくださっている。
 人は、ほかの人が罪を詫びても悔い改めても「絶対に赦さない」という頑なな悪意を持っている。自分自身には甘くて色々な言い訳があり「赦してほしい、受け入れてほしい、赦すべきだ、受け入れるべきだ」と当然のように要求するが、ほかの人には実に厳しい。神様と正反対だ。だから、神様の哀れみと赦しに対しておもしろくない心がある。
(マタイ18:23~34、Ⅰテモテ 2: 4、テトス2:11、Ⅱペテロ3:9)

 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――だから、悔い改めて、生きよ。     エゼキエル18:32

 主は、次のことを私たちに望んでおられる。

 ①偶像に関わらない。 
 ②隣人に悪を行わない。
 ③弱者を助ける。 
 
④卑しいこと、浅ましいことをしない。
 ⑤主のおきてに従って生きる。
 ⑥人を赦す。受け入れる。
 ⑦悔い改めて悪から離れる。

 主イエス様は、私たちにいつも悔い改めを促しておられる。悔い改めとは、罪を犯さないようにと、びくびくして萎縮するのではなく、主が与えてくださる新しい心と新しい霊によって、積極的に生きることです。(エゼキエル18:31)

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