キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった(彼が来られたのは、実に、敵対する者たちの侮辱を受けて苦しむためであった。)」と(詩篇に)書いてあるとおりです。 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 ローマ 15: 3~5 ※( )はリビングバイブル訳
神様は、私たちにイエス様と同じ思いをもって、同じ生き方をしてほしいと願っておられます。私たちにそんな大それたことができるのでしょうか。・・・。神様は私たちにできることしか命じておられません。
天地万物の創造主、栄光の主であるイエス様でさえ、自分の名誉・栄光・喜び・安楽を求めませんでした。そうであれば、ましてや罪に汚れていたにもかかわらず、イエス様の命を代価とし、恵みと哀れみによって救われ、新しく生まれ変わった私たちが、自分の利益のために生きることは、主のみこころではありませんし、ふさわしいことではありません。主は命じられます。
①他の人の弱さを担いなさい。
②自分を喜ばせないようにしなさい。
③隣人を喜ばせ、徳を高め、その人の益となるようにしなさい。
旧約聖書は、すべて今の私たちに忍耐と励ましを与え、希望を持たせるために書かれました。神様が最も望んでおられることは次のとおりです。そうすれば、神様があがめられます。
①私たちが心を一つにして神様をほめたたえること
②イエス様が私たちを受け入れてくださったように、私たちがお互いに受け入れ合うこと
旧約聖書は、今の私たちに「戒め」(Ⅰコリント10:6)と「忍耐」(ヘブル12:1)とを提供し続けています。それを読むことによってイエス様の生き方と自分自身の生きるべき道がわかります。