もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。 民数記 15:24
もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。 民数記15:27,28
主は、イスラエルの民が約束の地カナンに入ってからのささげ物やなすべきことをモーセを通して語られました。
主は、あやまって罪を犯した者に対して、悔い改めと回復の道、方法を示し、赦しを与えられました。しかし、主のことばを侮り、その命令を破った者には厳しく臨まれました(15:31)。そして、主と主の命令を忘れないように、着物のすそにふさをつけるように命じられました(15:37~41)。
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。 民数記 15:32
そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。 民数記 15:36
信仰とは、主を敬い、信頼し、愛し、服従し、命令を守ることです。これは、律法主義なのではなく、させていただけるというへりくだりです。信仰とは、行いによって現れるものです。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 ヤコブ 2:14
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 ヤコブ 2:17,18