「ひいき目の主」(礼拝メッセージ2014/06/01)

「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。   申命記 32:34~36

{「だがイスラエルは、わたしのとっておきの国民、倉に納めた宝だ。復讐はわたしの務め、イスラエルの敵には罰を下す。判決はすでに下った。」神様はイスラエルをさばき、彼らの失敗をやさしくかばわれる。申命記32:34~36 リビングバイブル訳}

諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。           申命記 32:43

120歳のモーセはヨシュアと共に、全会衆に聞こえるように大声で主からの歌を唱えた。主が真実で憐れみ深い(32:3,4,10~14)栄光のお方であることを告げ、その主に対して恩を仇で返すようなこと(偶像礼拝,32:15~18)をした民を責められた。 しかし、憐れみ深い主は、ご自分が選ばれたイスラエルに対して、彼らの失敗をかばい特別に扱い、再び祝福して下さった。

これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」   申命記 32:47

主は、モーセとヨシュアを通して、この唱えられたことばが、うそ偽りではなく真実なことば、いのちのことばであることを強調し、子々孫々に渡って教えるように言われた。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ 4: 5~8(5:6~8)

私たちも主から特別扱いの恵みをいただいている。

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