私たちは、喜び、悲しみ、悔しさ、寂しさ、感動など、いろいろな場面で涙を流します。最近では「涙活(るいかつ)」という言葉があり、能動的に泣くことでストレス解消を図る活動だそうです。
聖書は、神様の深い愛から出る涙や私たちが本当に悲しむべき事柄について語っています。それは「不信仰と不従順」です。
1.エレミヤの涙
BC627年から40年以上の間、預言者エレミヤ(神は確立される、派遣されるの意)は、真の神様を捨てて偶像礼拝を行なっていた民に対して、来たるべき患難(エルサレム滅亡、バビロン捕囚)、神様のさばきを警告し続けました。これらの出来事は彼が生きているうちに現実となりました。、
エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、同胞の強情さと不信仰、彼らに訪れる悲劇を深く嘆き悲しみました。「哀歌」の著者もエレミヤです。
ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、
娘である私の民の殺された者たちのために
昼も夜も、泣こうものを。 エレミヤ書9:1(9:13~16,哀歌3:48~51)
2.イエス様の涙
イエスは涙を流された。(英訳:Jesus wept.)ヨハネ 11:35
イエス様は愛するラザロが亡くなったために、涙を流されたのではありません。彼らにイエス様に対する信仰がなかったからです(ヨハネ11:33,38,40,42)。祭司長たちは、ラザロの奇蹟を見ながらも頑なになり、イエス様を殺そうと計画を立てました(ヨハネ11:47,48,53)。
エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。ルカ 19:41,42(ルカ13:33~35)
イエス様は、預言者や待望していたメシヤさえも拒否して滅びを招く、エルサレムの人たちの不信仰を嘆いて涙を流されました。
3.私たちの涙
私たちはどんな涙を流しているでしょうか。自分の悔しさ「自分が認められない、思い通りにならない、優位に立てない、プライドが傷ついた、寂しいなど」のために涙を流すのではなく、神様のみこころに添った涙が、信仰の勝利と揺るがない本当の喜びを与えてくれます。
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。 Ⅱコリント 7:10,11
エレミヤやイエス様のように、家族や隣人の不信仰に涙を流す人、自分の不信仰や不従順に涙を流す人になりましょう。
嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ヤコブ 4: 9