「神様のジレンマ」(礼拝メッセージ2013/03/17)

 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
 それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
 それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。
 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。   ホセア 11: 1~4

 私たちは、神様のことを「父なる神様」とお呼びしますが、神様が愛に満ちた「父」としてイスラエルに呼びかけています。
 神様は、イスラエルに食べさせ、腕に抱き、歩くことを教え、優しく呼びかけました。しかし、彼らは神様を「うざい」と思い、呼ばれれば呼ばれるほど離れて行ってしまいました。神様こころはどんなに悲しみ、苦しみ、辛さにあふれたでしょうか。
 
 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。       ホセア 11: 8

 神様の心は、イスラエルの背信を罰しなければならない「義」と、アッシリヤ捕囚という過酷な運命をたどる愛する我が子を助けたい「愛」の心が交錯しています。
 イエス様の十字架の救いは、まさに神様の「義」と「愛」のジレンマが交錯しているところです。
 イエス様もパウロ兄弟も同じような経験をしています。
 私たちは、お父さんを安心させ、お父さんと同じ心で共に喜ぶ者となりましょう。

 わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。     マタイ 23:37

 私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。                 Ⅱコリント 12:15

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