「生い立ちと信仰」(礼拝メッセージ2014/10/19)

さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。          士師 11: 1~3

エフタは、遊女の子だったために、家族からのけ者にされ追い出されてしまいました。孤独な彼の周りには、ごろつきが集まって来ました。そんな時にアモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきたため、長老たちは、エフタに助けを求めて来ました。 エフタは、そのような境遇の中でも主に対する信仰を堅く持ち続け(11:9,23,24)、アモン人の王との交渉においては、主が導いて下さったイスラエルの歴史を語り、主の働きをあかししました(11:15~27)。
主は、エフタの信仰を見て、主の霊に満たし(11:29)、アモン人との戦いに勝利を与えられました。しかし、エフタは、自らの間違った誓願によって娘を死なせてしまいました。
エフタの信仰は、新約聖書で称賛されています(へブル11:32~34)が、完璧な人間ではありませんでした。その信じ通した信仰と勇気がほめられています。
人の生い立ちや歩んできた道(成功、失敗)は、ある意味これからの信仰の歩みには関係がありません。人間的な過去の栄光にすがっていても、主が十字架で赦して下さった過去の罪や失敗にこだわっていても、本当の信仰の歩みはできません。今現在、どのような信仰をもって歩んでいるかが問題です。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。               ピリピ3: 8,9

私たちも主からあわれみを受けて救われ、今も相変わらず、あわれみを受け続けて生かされ、支えられています。感謝しましょう。(エペソ2:1~10,コロサイ1:21~23)

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