彼らはエレミヤに言った。「主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」 エレミヤ 42: 5~6
南王国ユダの王や多くの民は、主のさばきによってバビロンへ捕囚となりました。バビロンの王ネブカデレザルは、ゲダルヤをユダの総督とし、残された貧民たちを治めさせました。
残された民は、エレミヤに主の御心を伺ってほしいと頼みました。10日後に主からエレミヤに「私がともにいるので、バビロンを恐れずに、ここにとどまりなさい」と答えがありました(42:10~12)。
しかし、彼らは「良くても悪くても主のことばに従う」と誓いながら、舌の根も乾かぬうちに主の答えを無視してエジプトを頼って行きました(42:13~15)。主は、そんな彼らにさばきを宣告しました(42:16~22)。
主は、捕囚というさばきによってユダの民の悔い改めを引き出し、信仰による回復を与えようとされました。しかし、そのさばきを経験したはずの残りの民はことごとく主に逆らってエジプトで天の女王を拝み、更なるさばきを受けました(44章)。
見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。エレミヤ44:27
私たちは、さまざまなことで主の御心を求めて祈ります。それは自分の願望を達成するためでしょうか。主の御旨が成ることを願い求めてのことでしょうか。もし、主の御旨が成ることを願っているならば、自分にとって都合が良くても悪くても主のことばに服従するでしょう。その服従こそ最善の道です。聖書にはイエス様を初めとして自分の都合ではなく、損失を被っても御心に従った信仰の先輩たちがたくさん証しされています。自分の都合によって、主のことば(霊的なこと)を軽んじることは、大きな損失をもたらします。(Ⅰテモテ5:11~15)
バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。 Ⅰペテロ 3:21