イエス様はすわって、この世の価値観とは全く違う神の国の価値観を、じっくりと弟子たちに教えられました。それは、この世にあっても神の国にあっても価値のある幸いな生き方です。
(1)仕える者となりなさい
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 マルコ 9:35
イエス様が差し迫ってきた救いの業、十字架と復活を予告されたにもかかわらず、弟子たちは各自自分のことだけを考えて地位争いに熱中していました(ピリピ2:21)。そんな彼らにイエス様は自分を捧げて人に仕え、神様のために生きる道を教えられました。自分は人の先に立ちたいとは思わないから仕える者にならなくても良いということではありません(ローマ15:2,3、ピリピ2:3~9)。
(2)イエス様のゆえに人々を受け入れる
だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。マルコ9:37
イエス様は謙遜な方ですから、どんな罪人(私やあなた)でも受け入れて救って下さいました。自分の罪を認め、イエス様によって救われた者は、謙遜を身に付けてイエス様の名のゆえに、幼子でさえ受け入れることができます。
幼子はイエス様の代理人、イエス様は神様の代理人なので、幼子を受け入れることは、神様を受け入れることと同じです。逆に、幼子・あの人・あの兄弟姉妹は受け入れないことは、イエス様も神様も受け入れないことになります。
神様・イエス様を愛しているが、兄弟姉妹とは交わらないということはありえません。
(3)謙遜と和合の生活
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」 マルコ 9:50
イエス様はさらに、自分や他人に対するつまずきを排除し、塩け(防腐効果、厳格さ)を保ち、お互いに和合して(仲良く、平和に)暮らすことを勧めています。