「あなたの負うべき十字架は?」(礼拝メッセージ2016/10/23)

それから、みんなの者に言われた。「だれでも私について来ようと思うならば、その人は自分自身を否定し〈すなわち、自分を無視し、自分と自分の利益を忘れ、それに目もくれず、自分を否認し、自分を捨て去り〉、日々自分の十字架を取り上げて、私に従って来なさい〔すなわち、私に堅くよりすがり、生きるのにも、また必要ならば、死ぬのにも、全面的に私の模範にならいなさい。〕だれでも自分のいのちを守ろう〈救おう〉と思う者はそれを失い〈滅ぼし〉、まただれでも私のために自分のいのちを失う者は〔永遠の死の刑罰から〕それを守る〈救う〉からである。 ルカ 9:23~24(詳訳聖書)

「自分の十字架を負う」という言葉は、「苦難、運命、罪の償い、絶望、死、呪い、嫌なもの」などマイナスのイメージです。しかし、イエス様の負われた十字架は「罪の赦し、恵みと哀れみ、救い、復活、和解、新生、永遠の命、天の御国」を生み出したプラスのものです。イエス様は父なる神様のみこころ、自分の責任を果たすべく、十字架への道を進まれました。

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 ヨハネ 6:38(ルカ 22:42、ピリピ2:8)

イエス様に従おうとする者は、自分を捨ててイエス様の模範にならいます。私たちが負うべき「自分の十字架」は、イエス様の歩んだ道から教えていただけます。「十字架の道」とは、最終的に喜びと平安を見出す祝福の道です。

(1)十字架につけられた者(自我に死んだ者)として信仰によって生きる。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ガラテヤ 2:20(ガラテヤ5:24,6:14)

(2)主のみこころを第一とする。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。ヘブル 12: 2

(3)十字架は和解を生む。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。Ⅱコリント5:18   (Ⅱコリント5:19、エペソ 2:16、コロサイ1:20)

タイトルとURLをコピーしました