「希望のメシヤ」(礼拝メッセージ2016/12/25)

エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。・・・・・ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。 ルカ 2:25~38

イスラエルでは多くの人々が旧約聖書に約束されていた「メシヤ」の到来を心待ちにしていました。シメオンや女預言者アンナのように「罪からの救い主・メシヤ」を待ち望んでいた人たちもいましたが、多くの人々が求めていたメシヤ像は彼ら自身の願望から来るものでした。当時イスラエルがローマの支配下にあったため、ローマに対する勝利と平和と栄光である「政治的独立」をもたらしてくれる「メシヤ」でした。

1)モーセのような預言者 (申命記18:15~19)
2)エリヤの再来     (マラキ4:5,6)
3)ダビデのような王様  (Ⅱサムエル7:12,13)

イエス様の弟子たちは復活のイエス様にお会いしてでさえ、国の再興に期待していました。(使徒1:6、マタイ20:21)

多くの人々の期待とは裏腹に、大工の息子として成長し、地位も組織も経済力もない人物、ロバに乗ってエルサレムへ入城し、ユダに裏切られ、すべての弟子たちから見捨てられ、最後は十字架刑に処せられた男。
しかし、神であられながらへりくだって私たちと同じ「人」となって下さり、十字架の死にまで従って下さったことによって、私たちに勝利と希望と真の救いが与えられました。

救いを受けてイエス様を自分自身の「主」とした私たちはどうでしょうか。イエス様に対して自分勝手な願望を持っていないでしょうか。

1)天国行きの切符をタダでくれる方
2)自分の都合のいい時だけそばにいてくれる方
3)自分の言うことを聞いてくれる召使い

イエス様を主として神の子となる契約を結んだ私たちは、イエス様を第一とし、イエス様の喜び(悲しみ)を自分の喜び(悲しみ)として従わない限り平安はありません。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。マタイ 11:29

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