私たちは毎週の聖日礼拝に懺悔のために集まるのではありません。もちろんそれぞれに辛いことや困難なこと、がっかりすることがあったかもしれません。しかし、私たちのために犠牲となって救いを完成し、勝利を得られたイエス様に感謝し、更に良くなるためにみことばと取り扱いをいただき、慰めと励まし、力と平安をいただくために集まります。喜びましょう。イエス様はよみがえられ、私たちは救われました。
1.律法の誤用
死のとげは罪であって、罪は律法〔の誤用〕を通してその力を〔人の上に〕働かせるのです。 Ⅰコリント15:56詳訳
罪は生きて働く人格的な力です。神様が与えて下さった良き律法を利用して、いつも私たちを律法の下に閉じ込めて罪に定めようとします(ローマ7:10~12)。しかし、私たちはイエス様の贖いにより、「新しい〔いのち〕において、御霊の〔命令に対する服従の下で〕仕える」(ローマ7:6詳訳)者となりました。
2.主イエス様の完全なる勝利
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 Ⅰコリント 15:54(イザヤ 25: 8)
イエス様の最終的な救いのご計画は、再臨の時に成就します。これは、すでに旧約聖書のイザヤによって預言されていました。
しかし、イエス様は十字架の死と復活によって勝利を得られ、その勝利を、信じる私たちに与えて下さいました。
3.私たちは完全なる勝利にあずかる
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。 Ⅰヨハネ 5: 3~5
私たちは、罪の策略に惑わされてはいけません。自分自身の不義にがっかりして下を向き、後退することを望んでいるのはサタンだけです。神様は「律法は私たちをイエス様の下に導く養育係だ」と教えておられます(ガラテヤ3:23~27)。
サタンの言葉ではなく、みことばを信じ、イエス様に信頼して進んで行きましょう。