「弱い私」(礼拝メッセージ2017/06/11)

「自分は強い人間だ」と思っている人より「自分は弱い人間だ」と思っている人の方が多いことでしょう。
イエス様は、ルカ18:9~14でパリサイ人と取税人の二人の祈りの話しをされ、取税人の方が義と認められたと言われました。山上の垂訓でも心の貧しい者は幸いだと説かれました(ルカ6:20~23)。主の前に悲しむ者は、罪赦されて喜びの人に変えられるので幸いです(Ⅱコリント7:10)。
しかし、自分の弱さを自覚して、主の恵みによって元気になる人と、自分の弱さに失望してしまう人がいます。どちらが正しい生き方でしょうか。前者は、謙遜で素直にみことばを信じて信仰に生きる人ですが、後者は、猜疑心が強く、みことばを信じない、傲慢で自我によって生きる人です。
私たちは、聖書に出ている大使徒パウロは、強靱な心を持ったスーパーマンのような人物だと思いがちですが、彼ほど自分の弱さを自覚していた人はいません。そして自分の弱さを誇りとまで言い切りました。

1.弱さを自覚していたパウロ
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。Ⅱコリント 11:29,30

2.みことばを信じたパウロ 
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。Ⅱコリント 12: 9

3.弱さを喜び、誇りとしたパウロ
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 Ⅱコリント 12: 10(13:9)

弱さを自覚した者は、主の恵みと力が臨んでいること、兄弟姉妹が強められることを喜ぶことができます(Ⅱコリント13:9)。旧約聖書の聖徒たちも信仰によって勇士になりました(ヘブル11:32~34)。
イエス様は「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)と、弱くてもへりくだってみことばを素直に信じる者の幸いを話されました。

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