私はキリストといっしょに十字架につけられました。〈私は〔キリストにおいて〕彼の十字架にともにあずかったのです〉。生きているのはもはや私ではありません。キリスト〈メシヤ〉が私の中で生きておられるのです。私が今肉体において生きている生活は、私を愛して私のためにご自身を与えてくださった神のみ子を信ずる信仰〈彼に対する心服《よりすがり《〔全き〕信頼》》〉によって生きている生活なのです。 ガラテヤ2:20(詳訳)
今年度、主から与えられたみことばです。1年間どのような思いで歩むことができたでしょうか。「キリストが私の中におられる」ことを信じて歩んで来たでしょうか。
1.律法の要求
神の律法は、私たちに完全な義を要求します。ローマ3:10~18に示されているように、私たちはその要求に全く応えることができません。自己義を振りかざして、自分はダメだと落ち込むことも律法主義です。
・・・律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。ローマ 3:19
2.ともに十字架につけられた
主イエス様は、神の律法が要求される完全な義を完全に全うされました。「私たちがキリストと共に十字架につけられた」とは、イエス様が私たちの身代りとなって十字架につけられた時、イエス様を信じる私たちがあたかも同時に十字架で罰せられて、神様の義が全うされたということを表わしています。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。ローマ6:6
3.信仰によって生きている生活
私たちが今生きているのは、「古い罪の人、自己義、自己中心」ではなく、「イエス様の支配、聖霊様の内住、愛するイエス様への信仰・信頼」によっています。主イエス様が内におられるとは幸いなことです。私たちは主の恵みを無にしません。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。エペソ 3:17