「私たちがまだ罪人であったとき」(聖日礼拝メッセージ 2021/10/03)

 今日は、イエス様の十字架の死について考えてみましょう。
 イエス様の生涯は33歳という短い生涯でした。聖書を見るとイエス様は私たちを愛するあまり、自ら十字架の死に進み、身代わりとしていのちを捨ててくださったことがわかります。

1.十字架の死
 多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 マルコ 10:45 
 わたしが自分からいのちを捨てるのです。 ヨハネ 10:18

 ①私たちのための身代わりの死      Ⅰペテロ 3:18
 ②神様の義(律法)を満足させるため   へブル 10:8~14
 ③贖罪、宥め、和解のための死      ローマ 5:9~11
 ④私たちのためののろいとしての死    ガラテヤ 3:13

 イエス様の十字架の死は、神様の壮大な救いのご計画であり、旧約聖書で預言され、新約聖書でも復活と並んで最重要事項として記されています。

2.私たちがまだ弱かった時
 私たちがまだ弱かった〈自分自身でどうする力もなかった〉時、キリストはちょうど良い時に、不敬けんな者のために死んでくださったのです。・・・しかし、神は、私たちがなお罪びとであった時、キリスト〈メシヤ、油そそがれたかた〉が私たちのために死なれた事実をもって、私たちに対する〔ご自身の〕愛を示されたのです〈明らかに証明されたのです〉。ローマ 5:6~8(詳訳)
 イエス様は、私たちが善良で立派な人間だから、十字架で身代わりに死んでくださったわけではありません。私たちが、罪に支配され、弱くてどうしようもない状況だったにもかかわらず、すでに十字架で死んでくださっていました。そこに私たちへのイエス様の深い愛があります。

3.イエス様の愛を受け入れよ
 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。マタイ 11:29

 イエス様の愛を受け入れるのは、人の好みであって、受け入れても受け入れなくても、どちらでも良いというものではありません。これほど大きなイエス様の愛を信じ受け入れないことは罪です。
 パウロは神様の和解を受け入れるように、神様も自分も懇願していると言っています(Ⅱコリント 5:20)。私たちも懇願しながら伝えましょう。

 滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。Ⅱテサロニケ 2:10(新改訳第3版)

 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。Ⅰコリント 6:9,10

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