幸いなことよ。
いつも主を恐れている人は。
しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。 箴言28:14
麗しさはいつわり。
美しさはむなしい。
しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 箴言31:30
主を恐れるとは、恐怖心を持って尻込みすることではなく、畏怖の念を持つことです。
人は、いつも勘違いしやすい性質を持っています。イエス様を信じるクリスチャンであっても例外ではありません。自分にすべてを正しく判断する能力があり、すべてを決める権利があると思ってしまいます。
しかし、みことばによると私たちはイエス様の言いなりになるために救われ、服従することによって幸いと祝福をいただくことができます。逆に、自分優先の判断と自分の権利の主張、心の王座に自分を座らせることは、サタンと悪霊の思うつぼであり、災いと信仰の破船のさきがけとなります。
みことばは、主を恐れて、主に対する絶対的な信仰と服従、信仰に基づく勤勉さ、信仰に基づく行動を求めています。(箴言26:13~15,31:10~27)
なまけ者は、「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる。」と言う。
戸がちょうつがいで回転するように、
なまけ者は寝台の上でころがる。
なまけ者は手を皿に差し入れても、
それを口に持っていくことをいとう。 箴言26:13~15
彼女は家族の様子をよく見張り、
怠惰のパンを食べない。 箴言31:27
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。 ヤコブ2:26
信仰に基づく服従(行動)こそが私たちに求めておられることです。そこに何にも変えがたい祝福と勝利と喜びがあります。
しかし主に拠り頼む人は豊かになる。 箴言28:25
しかし主に信頼する者は守られる。 箴言29:25