こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。Ⅰコリント 4: 1~5
コリント教会の兄弟姉妹は、ねたみ合い、仲間割れし、教会を分裂させ、霊的な父であり、指導者であるパウロを非難して、まるでノンクリスチャンのように生活していました。
パウロは、そのような傲慢な態度をとる兄弟姉妹に対して、他人をさばいてはならないことを教えます。
パウロの考えは首尾一貫して揺れ動くことはありません。
① 私はイエス様の家来である。(リビングバイブル訳)
② 私は人の評価を気にしない。
③ 私は自分をもさばかない。
④ イエス様がすべてをさばかれる。
私たちは、信仰の歩みが順調そうな時、経済的にゆとりが出てきた時、自分だけががんばっていると思い始めた時に高慢な心が頭をもたげてきます。主の恵みと人々の忍耐によって成り立っている生活を自分の力で勝ち取ったと勘違いしてしまいます。自分がイエス様の家来であり、イエス様を喜ばせるために生かされていることを覚えましょう。
律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。 ヤコブ 4:12
ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 ヤコブ 4:16