聖餐式は、初代教会では最後の晩餐(過ぎ越の祭り)に倣い、食事といっしょに行われていましたが、2世紀半ば頃には愛餐と聖餐が分離されるようになりました。聖餐を受ける(陪餐)ことは、主イエス様の十字架の死と復活、主イエス様とクリスチャンの交わり、兄弟姉妹の一致を現しています。礼拝において、みことばのメッセージと同様に大切な要素です。
1.主イエス様との全人格的な交わり
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。Ⅰコリント10:16
(1)キリストの血にあずかる(全人格的)交わり、イエス様 を愛情を持って覚えるために(Ⅰコリント11:24~26詳訳)
(2)新しい血による契約(信仰義認、神との和解)
(3)十字架の死の事実を宣言するため
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 ヨハネ 6:53
2.兄弟姉妹の一致
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。 Ⅰコリント10:17
兄弟姉妹が共に集まり聖餐にあずかること(使徒 20: 7)は、イエス様との霊的一致を現すとともに、兄弟姉妹の一致(ひとつのからだ ローマ12:5)を現します。
3.ふさわしいしかたで聖餐にあずかる
人は自分を〔十分に〕反省し、その事をしたのち〔はじめて〕パンを食べ、杯を飲むべきです。Ⅰコリント11:28(詳訳)
パウロはⅠコリント11:21,22でコリント教会の聖餐の混乱(自己中心で兄弟姉妹をないがしろにし、ただの食事のように食べる)を批判しているのであって「完全で立派な人しか聖餐にあずかれない」と言っているのではありません。もしそうならだれもあずかれないでしょう。自己義によってではなく、聖餐の正しい理解と信仰と悔い改めと感謝を持って臨みましょう。
安息日を「喜びの日」と呼び・・・・ イザヤ 58:13,14