神様は光であり、少しも暗い部分がありません。これが、神様から私たちにゆだねられた、あなたがたへの教えです。神様の友だちと言いながら、霊の暗闇と罪にはまり込んで生活しているなら、私たちは、うそをついているのです。しかし、神様の光の中におられるキリスト様にならって、私たちも光の中で生活すれば、互いにすばらしい交際と喜びとを味わうことができます。そして、神の子イエス様の血が、私たちをすべての罪からきよめてくださるのです。 Ⅰヨハネ 1:5~7(LB訳)
漁師で気性の荒い「雷の子」ヨハネは、イエス様の愛によって晩年は「愛の人」になりました。そのヨハネは、自分が見聞きし、体験したことを伝えました。それは、兄弟姉妹が霊の暗闇と罪の生活を離れて、父なる神様・イエス様、兄弟姉妹と交流を持ち、喜びに溢れるようになるためでした。暗闇の生き方と光の中の生き方が対比されています。(Ⅰヨハネ1:3~10)
・暗闇の歩み―口先だけの信仰、霊の暗闇、罪の生活、偽りの行い、神様・イエス様との交流なし、兄弟姉妹との交流なし、聖化なし、喜びなし
・光の中の歩み―兄弟姉妹との交流、神様・イエス様との交流、悔い改めと聖化、全き喜び、正直、真実
光の中を歩むとは、全く罪を犯さなくなることではなく、光の中を歩むことによってより罪があばき出されて、その結果、常に悔い改めて、きよめを求めることです。
当時の異端であったグノーシス主義(二元論)は、霊と肉体を分離して考え、道徳律廃止論を唱えていました。「肉体の行為は魂に影響を与えない。霊的な人はどんなものによっても汚れない。神との交わりは肉体的行為や道徳性と無関係。など」
ヨハネは、この「自らを騙し、神様を偽り者」とする教えに惑わされないように、罪を捨ててきよめられる道を追求するように命じています。Ⅰヨハネ3:6~12(罪とは、一つ一つの行為ではなく原則を意味する。罪の性質・根源、自己中心主義。)
愛する友よ。神様がこれほど愛してくださったのですから、私たちもまた、互いに愛し合おうではありませんか。・・・・ 互いに愛し合う時、神様は、私たちの心の中に住んでくださり、心の中の神様の愛を、なおいっそう強めてくださるのです。 Ⅰヨハネ4:11,12(LB訳) 4:7,3:16~18