「和解・罪・罪過のためのいけにえ」(礼拝メッセージ2014/02/02)

 もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。その人はささげ物の頭に手を置く。それは会見の天幕の入口の所でほふられる。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。  レビ 3: 1,2

 彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。   レビ 4:28,29

 これらの一つについて咎を覚えるときは、犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、償いとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。      レビ 5: 5,6

 和解のいけにえは、ささげる者が主との交わりを再び確立するためのものです。罪のため、罪過のためのいけにえは、罪の赦しを得るためのささげものです。一般的に罪のためのいけにえは、神様に対してのもの。罪過のためのいけにえは、社会的な違反に対してささげられるものです。
 いけにえをささげる者は、いけにえの頭に手を置いて自分の身代わりであることを示し、自分の罪をゆだねます。祭司はそれを受け取って主にささげ、ささげた者は罪の赦しを受けます。
 主へのいけにえは、唯一絶対神への信仰、聖い神様との交わり、罪に対する贖いの必要、律法への服従を現しています。
 そのいけにえは、イエス様によって完成されました。すべての人は、イエス様の十字架の死と復活によって、罪の赦し、永遠の命をいただきます。
 
 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。      ヘブル 9:14(ヘブル10:1~10)

 私たちが救われたのは、自分自身のためではなく、イエス様のために生きるためです。互いに勧め合って愛と善行に生きることができるようになりました(ヘブル10:22~25)

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