「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。 エゼキエル 14: 3
それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。 エゼキエル 20:16
イスラエルの長老たちは、預言者エゼキエルの前に、主の御心を求めてやって来ました。しかし、主は、彼らの願いを聞き入れませんでした。不義と偶像礼拝を捨て、悔い改めてから来るようにと告げられました。主は常に契約を結んだイスラエルの民に対して、誠実を尽くされました。
1)エジプトから救い出し、約束の地に導き入れた。
2)平安に生きる道を教えた。
3)道から外れそうになった時に注意を与え、哀れみをかけた。
しかし、イスラエルの民はことごとく主に従いませんでした。
1)エジプトの偶像を捨てようとはしなかった。
2)主のおきてと定めをないがしろにし、安息日を汚した。
3)再三の注意にも聞き従わなかった。
主は不忠実な者にも常に誠実を尽くされますが、人は自分に都合の良いものだけをいただき、主を良いように利用しようとします。私たちは、主のために何を取り置いているでしょうか。
イエス様がご自身を神様への供え物としたように、私たちも同様に捧げるように勧められており、供え物としての生活が具体的に示されています(エペソ5:1~21)。
1)不品行、愚かな話し、むさぼり、偶像礼拝を避ける。
2)感謝・賛美をする。
3)暗やみのわざに仲間入りしない。
4)御霊に満たされる。
5)兄弟姉妹お互いが従い合う。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ローマ 12: 1
心の偶像を慕う心が、主の聖日を軽んじさせます。