「私の道は主に隠れているのか?」(礼拝メッセージ2016/11/20)

ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 イザヤ 40:27

イスラエルの民は、アッシリヤ・バビロンの脅威にさらされる中、自分たちの罪や不信仰を棚に上げて不平を鳴らすだけでした。彼らは、神様の偉大さ、すばらしさ、恵み深さを知ろうとはしませんでした。
しかし、神様はイスラエルに対して、バビロン捕囚後にペルシャのクロス王によって民を帰還させてイスラエルを再興するとの、赦しと慰めと希望のメッセージを与えられました。神様には彼らを絶対に見捨てない愛と赦しの計画がありました。
人は、イスラエルの民と同じように不信仰によってつぶやきます。自分が満足し理想とする道や自分の正しい主張を神様はなぜ無視するのか、なぜきちんと受け止めて対応してくれないのだろうかと不平を言います。そこで、神様は心の鈍い人間に預言者とみことばによってご自身を明確に示されます。

①神様は罪を赦し回復して下さる方  イザヤ40:2
②神様はやさしく導く方       イザヤ40:11
③神様は創造者           イザヤ40:21~26,28

神様は永遠を見ておられ、愛と哀れみによって私たちに最善の計画を示されます。イスラエルの民も私たちも、自己義ばかりを主張して、みことばを心から信じ、従おうとはしません。逆に自分に神様を従わせようとします。人は、人につまずくのではなく、神様やみことばにつまずきます。
神様が私たちのことを気にもかけず、見過ごされることはありえません。私たちは、みことばによって教えられ、主とみことばを信じて進みましょう。

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。イザヤ40:29~31

私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 Ⅱコリント4:16~18

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