からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。マタイ6:22,23(ルカ11:34~36)
このみことばを見ると「私は目が悪い(近眼、老眼)、きれいじゃない、生き生きしていない。目の善し悪しで全身の善し悪しが決まるのだろうか」と心配になることはありませんか?
古くから「目はこころの窓、健全な目から光が入って健康、目が悪いと全身が暗くなり病気になる。」と考えられていたそうです。イエス様はこれを比喩的に捉えて、霊的な真理を示されました。
・目⇒霊性、良心
・健全(*明らか、澄んでいる)
⇒天に宝を積むことに励んでいる(マタイ6:19~21)。
心が一つのものに集中している(二心のない)(マタイ6:24)。
役目を十分に果たしている。寛大な、気前の良い。
・悪い⇒貪欲
イエス様は、霊的、信仰的に健全な人は、みことばによる正しい価値判断ができ、地上に宝を蓄えることに固執せず、気前良く施して天に宝を蓄え、永遠を見据える人だと言われます。
逆に不健全な人は、地上の宝に執着し、周りの必要に目を閉ざし、貪欲によってますます暗くなり、地上のことしか考えない人だと言われます。
イエス様は「あなたの内の光が、暗やみにならないように気を付けなさい。(ルカ11:35)」と注意されました。みことばと信仰に立たなければイエス様のことを正しく理解することはできません。私たちの内側が明るければ、周りの人々を明るくし、イエス様のことを伝えることができます(ルカ11:33)。
マタイの福音書では、この後、「空の鳥と野の百合」(マタイ6:25~34)の話しをされ、神様に全幅の信頼を置くように勧められています。ルカの福音書では、「パリサイ人、律法学者の偽善」(ルカ11:37~52)が非難され、神様に対しても、隣人に対しても誠実に歩むように勧められています。
あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 エペソ 1:18,19