だれも神の恵み〈受ける資格のない者に与えられる神の愛顧と霊的祝福〉から退く《恵みを保つことができなくなる》ことのないように、また憤り〈恨み、苦々しさ、憎しみ〉の根がはえ出て、悩み〈激しい苦痛〉の原因となり、多くの人がそれによって悪に染む〈汚される〉ことのないように、前々から見抜いて〈警戒して〉〔互いに〕注意し〔合い〕なさい。 ヘブル 12:15(詳訳)
私たちには、罪人の反抗を忍ばれ、救いを完成して天の御座に着座されたお方、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様が共にいて下さいます。そのお方は、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして、私たちに懲らしめと訓練を与えて下さいます。みことばは、神様の恵みから落ちる危険性を示し、注意を与えています。
1)恵みの懲らしめから逃げてはいけない(ヘブル12:4~13)
神様の訓練と懲らしめは、私たちに平安な義の実を結ばせる神様の恵みです。ですから、神様の真意を受入れないで不信仰に陥り、不平・不満を鳴らしたり、意気消沈してはいけません。
2)神様の恵みを軽んじてはいけない(ヘブル12:16,17)
エサウは、神様の選びの恵みと霊的祝福よりも、1杯数百円の食物の方に価値があると判断し、神様の恵みを軽んじてしまいました(創世記25:32~34)。人は、目に見えないものより、目に見えるもの、神様の約束や霊的なことより自分自身の満足、人の目を優先させやすいものです。
3)自己義に陥ってはならない(ヘブル12:18~24)
私たちは、イエス様の身代りの死と復活、恵みと信仰によって救われました。自分の行ないによって救われようとすることは、ユダヤ主義・律法主義です。そこには常に恐れと不安、優越感と劣等感、高慢と自己卑下がつきまといます。私たちには、新しい契約の仲介者イエス様がいらっしゃいます。
私たちは互いに恵みから落ちないように注意し合うように勧められています。互いに交わりがなければ不可能なことです。
私たちは、堅固な〈安定した〈震われない〉み国を受けたのですから、感謝しようではありませんか。そして、感謝のうちに、慎み〈敬けんな配慮〉と神に対するおそれ〈畏怖〉とをもって、神に喜ばれる奉仕〈神に受入れられる礼拝〉をささげようではありませんか。私たちの神〈は実に〉焼き尽くす火であられるからです。 ヘブル12:28,29(詳訳)