「見ないで信じる幸い」(礼拝メッセージ2018/08/19)

トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」  ヨハネ20,28,29

「見たから信じた」とは、「見ていないから信じない」ということです。イエス様は、見ないで信じる者こそが幸いだとおっしゃいました。

1.大切なものがすべて見えるとは限らない
人間に見えているのは、電磁波の内のごく一部の可視光線だけです。ましてや、生活圏外、霊の世界、過去・未来、ほとんどが見えていません。「見えるものしか信じない」ということは、不合理で非現実的です。
聖書は、見えないものこそ大切なものだと教えます。それは、救いであり、永遠の命です。見えないからといって信じることをやめて不信仰に陥ってしまえば、最も大切なものを失ってしまいます。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。Ⅱコリント4:18

私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。ローマ 8:24,25

2.私たちを生かすもの。それは信仰。
間違ったもの、不確かなものをいくら熱心に信じても、真実なものに変化したりはしません。真実な神様、ひとり子をお与えになったほどの愛、歴史的事実の十字架の贖いと復活、これら確かなものを信じる信仰こそが、私たちを罪から救い出し、新しい生き方、永遠の命へと導くものです。

イエスは彼に言われた。「あなたは私を見て信じましたね。でも、見ないで信じるのが信仰です。信じる人は幸いです。」ヨハネ20:29(現代訳)

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 ヘブル11:1

3.永遠の天を目指す生活

目に見えるものだけを求める生き方とは、自分が納得し、自分が利益を得て満足する、自分中心の生き方であり、御利益信仰です。イエス様が幸いだと言われたのは、神様は創造主であり主権者なので、被造物である私たちは、見なくても、見えなくても信仰によってみことばに従うことです。

私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。Ⅱコリント5:7

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。ヘブル11:13

イエス様と同時代に生きてイエス様と触れ合い、奇蹟を目撃し、直接教えを聞いた人たちは幸いでしょう。しかし、イエス様は、見ないで信じている現代の私たちの方が幸福だとおっしゃいました。

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